ウオスエの廃業(1)

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 平成二十七年十月二十日、昭和三十四年に卒業した高校の同窓会があって,私は尾道にいた。

会場は私が前夜から宿泊する駅前のグリーンヒルホテルで,午後四時開始の予定だった。

時間の余裕があるので、駅前から市バスに乗って卒業した高校を訪ねてみることにした。

受付で用向きを告げると,教頭先生に迎えられ校内の案内をしてもらい、いまは存在しない文芸部の部室

あとや図書室を見学した。書棚には私の著書が十数冊並んでいた。それが来訪者の私の本だと知って、

教頭さんが「こんど生徒たちに何か話をしてもらいたい」と言って、そこではじめて名刺の交換をした。


 校舎を出ると、私は吉和港を見るために国道沿いに西へ歩いた。

五、六分も歩いて吉和漁協の建物の手前で左に入ると海岸に出た。

吉和漁港である。漁協の裏手に広場があった。

表面はコンクリートで覆われた一見して五百坪はありそうな空き地で、ここがかつて〈漁民アパート〉

が建っていた場所だ。


吉和港を母港とする数百隻の家船が港を埋め尽くした時代があった。

戦後陸上に住居を定めることを奨励された家船の漁民たちのため、昭和三十年代に建造されたのが

〈漁民アパート〉だった。

 広場から東を見ると二竿の幟がひるがえっていた。

十月の最終日曜日に催される吉和八幡神社例大祭を告げる幟だ。

足利尊氏の時代から吉和漁民の信仰があつかった神社である。参詣してこようと思う。

西を振り返ると三百メートルほど先の海岸端に〈ウオスエ〉のブルーの看板を掲げた工場が見えた。

尾道名産として〈桂馬の蒲鉾〉と並ぶ二枚看板だった〈ウオスエの鯛の浜焼き〉の工場である。

 私は六月に『天皇浜焼き鯛』という小説を書いたばかりだった。

その中で昭和二十二年十二月に昭和天皇尾道行幸のみぎりに献上されたのが右の二品だったことを書い

た。吉和漁民、町民のみならず尾道市民にとってもウオスエの鯛の浜焼きは郷土の誇りだったと思う。

だから駅前から市バスに乗ったときからウオスエの工場を近くから見ておきたいと考えていた。


 まず順序として八幡神社をめざす。吉和漁協前から山陽本線の踏切を渡って細い路地を抜けると急な石

段がある。それを上れば吉和八幡神社である。五日後に例大祭があるはずだが、こぢんまりした境内は

ひっそりとして人影はない。

家々の屋根越しに吉和港を眺めてから、足下に注意を払いながら石段を下りた。

社務所を兼ねているらしい家の入り口に〈吉和太鼓おどり保存会事務所〉という木の札が掛けてある。


 太鼓おどりの始まりは、足利尊氏尾道から九州に向かうとき水先案内をつとめたのが吉和の漁師たち

で、尊氏は功労のあった吉和の船頭たちに近海の漁業権や特典を与えたそうで、これを喜んだ吉和の漁民

が勇壮な戦勝祝いを踊ったのがそれで、西暦偶数年の旧暦七月十八日に踊りは尊氏ゆかりの浄土寺に奉納

され、広島県無形民俗文化財に指定されている。

 事務所の前には三十坪程度の広場があるが、ここを〈射場〉と呼ぶ。昔は漁民たちは水軍にも参加した

から、ここに弓の練習をした射場があったということだ。密集した住居の中の迷路のような路地の奥に、

ぽっかりと空いた、さほど広くもない広場が室町時代から伝えられた吉和太鼓おどりの練習場なのだと

知った。

 (2)へつづく