徳川慶喜終焉の地
慶喜没後100年記念展を見た。
(現文京区春日2丁目)に、その終焉まで暮らした。死去は大正2年11月22日享年77だった。
ということ。
もっとも容保がその地に暮らしたのは明治20年代で、旧主慶喜が第六天町へ移ってきた明治
34年には容保は生きていない。彼は明治26年12月に没しているからだ。
とはいいながら、慶喜と容保が100メートルほど隔たった近くで晩年を過ごしたことには
幕末動乱期の彼らの苦難の歴史を知るものには、感慨深いものがある。
鴎外の森家は幕臣ではなかったし、鴎外自身は明治政府に奉職していたから、まことに
クールに最後の徳川将軍だった慶喜の葬儀について書いている。
大正2年12月30日 陰。夕長谷川時雨尾上菊五郎を伴いて来ぬ、狂言座を組織し、予に顧問たらんことを請ふなり。 これを諾す。永井壮吉、上田敏来訪の約ありしに、上田風邪に冒されて罷む。 是日徳川慶喜を上野寛永寺に葬る。
日記にある永井壮吉は鴎外に師事していた永井荷風のこと。