「宗右衛門町ブルース」(2)

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平和勝次さんは、上方の漫才師平和ラッパの弟子だった。

平和勝一・勝次のコンビで、ギター漫才をやっていたが、オモロない芸で売れなかった。

苦労ばかりしてきた人で、父親は浪曲師で母親が三味線弾きだった。

旅回りの貧乏浪曲師の子に生まれたから、母親の郷里広島県の竹原に、二つ年下の

弟と一緒に預けられて、成長した。

14歳になって、父親に再会できたとき、そこは大阪の病院で、肺ガンを病んでいた

父は今はのきわだった。

母親には、別の浪曲一座と旅回りするから、一年に一度、駅のホームで会えただけ。

さびしい少年時代をすごした。

中学卒業して、浪曲師の内弟子になるが、もう浪曲では生活の出来ない時代だった。

5年の後に漫才に転向。21歳だった。

ここでも下積み苦労をしたばかりで、売れなかった。

ある日、宗右衛門町でホステスが、客を「あしたも、きっと来てね」と送り出す

情景を見た。

大阪ミナミの宗右衛門町は、かつては浪速商人の旦那衆が遊ぶ、格式のある花街だった。

芸人達が、いつかはそこで遊ぶ身分になりたいと、憧れた遊び場だった。

その様子を見かけた平和勝次さんが、その夜、歌の詞を書いた。

1962年の北原謙二のヒット曲「さよなら さよなら さようなら」の曲につけた

歌詞だった。

その「替え歌」を演芸場でギターをひきながら歌ったりした。

酔っぱらいの客からリクエストを貰ったりしていた。

それが「宗右衛門町ブルース」だった。


1972年、とうとう漫才師をやめることにして、

その一曲を自腹をはたいてレコードの自主制作した。

27歳になっていた。

500枚プレスして、ネオン街で手売りした。

ぽちぽち、大阪・堺の有線放送でレクエスト曲になりはじめる。


その年1972年、ぴんからトリオの「女のみち」が大ヒットするという芸能界の

大事件が起きた。

レコード会社が、二匹目のどじょうを捜していたところへ、有線放送に流れている

「宗右衛門町ブルース」が聞こえてきた。

クラウンからレコードを出すことになり、芸人仲間で

平和勝次とダークホースというバンドを結成する。

そして、レコードは大ヒットとなる。