「海は広いな大きいな」が戦争協力か?

童謡「ウミ」が戦争協力の作品ではないか、という意見があるといって、

作詞家の林柳波(はやし・りゅうは)を検証する記事を朝日新聞(2月6日)で読んだ。

この童謡は昭和16年2月に国民学校1年生の『ウタノホン』(歌の本)に掲載された。

その年の12月8日太平洋戦争が勃発している。

林は軍歌もつくるし、当時文部省の教科書編集委員もつとめていたから、国策に協力する

意図があって、この作詞をしたこともあり得る、という見解を紹介する。

カタカナ表記なので読みづらいから、漢字とひらかなに直して、読んでみる。


                     海

         海はひろいな大きいな 月がのぼるし日がしずむ

         海は大波荒い波 ゆれてどこまで続くやら

         海におふねを浮かばして 行ってみたいなよその国


どこが国策協力的かというと、3番の「船を浮かばして 行ってみたいなよその国」だという。

つまり軍艦を海に浮かべて南方に雄飛する夢を、小学生たちに吹き込もうという

意図があったのでは……うんぬん。

海をながめながら、水平線のはるかかなたに、見たこともない異国の風景に憧れるのは

いつの時代の少年少女も変わらないと思うので、この歌詞から「国威発揚」だの「南方雄飛」だの

をことさら引き出すのは無理ではないかと思う。



それよりも、この記事の後半が興味深かった。

林柳波の妻のことである。

妻は「きむ子」という。

彼女は大富豪で、群馬県藤岡出身の国会議員だった日向輝武の妻だったが、

夫の輝武の死後、6人の子がありながら、彼女の側から申し込んで、林柳波と再婚した。

林は群馬県沼田の出身で、林と日向夫人だったきむ子は、地元の赤城山ふもとの大沼湖畔で

知り合ったらしく、彼女は林に一目惚れしたものらしい。

知り合ったのが大正6年、そして夫輝武が死んだのが翌大正7年、そのまた翌年大正8年に

かれらは結婚した。林は彼女より8歳の年下だった。

世間は非難した。新聞はスキャンダルとして面白おかしく報道したが、きむ子は怯まなかった。


なにしろきむ子は、浅草の浄瑠璃狂言の家に生まれた才色兼備で、日本舞踊の名手、

そしてなにより、柳原白蓮、九条武子と並んで「大正3美人」とよばれた美貌の持ち主だった。


だから、当時の新聞は、今日の芸能ニュース、週刊誌、ワイドショー並の執拗さで、

かれらを追いかけ回したのである。マスコミの妬み、やっかみはいつの時代も同じ。


のちに彼らは、林の不倫が原因で、離婚するのだが、

きむ子は、自分の美貌をブランドとして、「オロラ化粧水」という美容液を販売したり、

林の童謡から童謡舞踊を創作して全国公演したりと活動して、舞踊会で重きをなした。

82歳で昭和40年代に没したということである。


さて、大正3美人である。

どれほどの美人であったか。

林きむ子、歌人柳原白蓮と九条武子、美人の競演とまいろう。



①は林きむ子   (朝日新聞から)

イメージ 1


②は柳原白蓮   (『生きた恋した女の100年』より)

イメージ 2


③は九条武子   (岩波文庫『近代美人伝』より)

イメージ 3



「大正3美人」の写真をさがして、上の「生きた恋した女の100年」と「近代美人伝」を

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