石山淳氏の『恋ヶ窪』評
(写真は中元紀子さんの写真詩集「おのみち」から)
姫路在住の詩人で、年齢的にはわくわく亭の先輩である石山淳さんから、便箋に手書きで10枚という
長文の『恋ヶ窪』評を戴いた。
石山さんには『田螺日記』『椅子取りゲーム』など7冊の詩集と、句集、エッセイ集などの
著書がある。現代詩評においてもバランス感覚にすぐれた公正な論評に定評がある。
3篇への感想の一部を紹介させてもらいます。
○恋ヶ窪
(前略) 印象的なシーン、(実体験ではないかと見紛う表現体) 『ひたいの髪のはえぎわまで赤らんだ顔で、北山を見たあと、少女が半べそをかいたような 表情になり、「はっ」という小声を、その場に捨てるように、足早に石段を地下へと下って いった』と、実に見事、鮮やかな離別を演じ、淡い恋は切ない恋は終わりますが、この 「はっ」と、という表現不能の恋心の切断は、いろんな思いを引き寄せており、おそらく 物語は終わったが、恋の心情(病)はここより一層募っていくのではなかろうかと、充足 できぬ精神の傾斜を眺め――、ひりひりする痛みを覚えました。 (中略) 「恋ヶ窪」は、また違った角度から読み返したくなる力作です。シューベルトの 「未完成交響曲」を幾度も聴いていた若き日が想い出されます。 私の中でも、作中人物「洋子」への恋はまだ続いているようです。
○神楽坂百草会
(前略) 何と言っても北山君の取引先の西新宿の女社長から宿題として出された、北原白秋の「赤い鳥小鳥」 の三番まで聴いて――「泣いちゃうんだ。自分でも、なぜ泣くんだろうかって、不思議で なんないんだけどさ」と泣かされる秘密を考えるようにとの問答が、文章力を発揮している ように思えます。 女社長の影の部分、何だか虚しいような人間の生きざまが、こちら側の肌に皮膚感として 残っていて、堪らないような気持ちになりました。 (後略)
○鹿児島おはら祭り
「おはら節」の歌詞とリズムが、基底に流れていて哀感を誘います。癌に侵された外園さんの 死生観というか、「おはら節考」の原稿や電話の声や、生存中の会話等に表わされた内容から、 死をむかえる一人の人間の尊厳みたいなものが、毅然として冷静な姿が感じられる力作です。 (後略)
3篇それぞれに、あたたかい書評を、ありがとうございました。