ひとは何処から来て、何処へゆくか

  ひとは何処から来て、何処へゆくか


 平成二十一年十一月に、俳優の森繁久弥さんは九十六歳で亡くなった。

名優であるし、歌手として、あるいは日曜名作座での朗読は声優としても名声の頂点をきわめた、

まことに多彩な芸人、芸術家だった。

 森繁さんのエッセイがまた洒脱な、味わい深い文章でつづられており、著書も多い。

 三木のり平山茶花究伴淳三郎小林桂樹といった喜劇俳優たちとの交友録を読むと、

彼らの演技を、数限りなく映画で見てきた僕たちとしては、あらためて森繁節を通して、

彼らの人間くささに触れることができて、その素顔が懐かしく親しくよみがえる。

 あまり知られていないようだが、勝新太郎ともかなり親しい交遊があったようだ。

森繁さんの交友録に、こんなエピソードがある。

 ある日、勝が茫然としている。何かあったのか、と訊くと、

「おふくろが逝っちゃったんだよ」と言う。

 森繁さんが言葉を失っていると、

「俺、兄貴と二人でおふくろのアスコを見たよ、通夜でさ」

 兄貴とは若山富三郎である。

「俺たちが出てきたアスコを拝んでいたら、涙が無性に出てきてな」

 変な奴だと思ったとたん、森繁さんも泣いていた。



 ところで、私の母は九十一で死去したのだが、その直前まで自宅で介護をしていた。

妻が留守をしているときに、ベッドの毛布にくるまったまま粗相をし、ゆるい便を、どっさり失禁

してしまったりした。

 毛布も掛け蒲団も、下着も、汚れてしまう。それらを風呂場に投げ込んでおいて、

バケツに湯を入れてくると、ベッドに横になった母の下半身を、洗うのである。

母の体には筋肉というものがほとんど無くなって、骨に皮が垂れ下がっているような状態である。

 勝新太郎が言った「アスコ」は前後左右から垂れた皮に埋もれかかった小さな洞穴のようである。

その周りや内側までも、汚れている。

 母は失禁したあとから、「ごめんなさい」と詫びを言い続けている。

「いいんだよ。詫びなくて。いまから、僕が産んでもらって出てきたところを、きれいにするからね。

ここは観音様だ。念仏を唱えながら洗うから」

 私は事実、南無阿弥陀仏を唱えながら、「アスコ」の内側をタオルで拭くのだった。

そこはいま、筋肉が弛緩してしまって、赤子が自由に出入り出来るほどに広がったままである。

 人は死ぬと、生まれたところに還るという人がいる。だとすると、母の子宮から生まれて、

また子宮に還ることになる。

 宇宙のどこかに、とてつもなく巨大な子宮があるのであろうか。