芳町
すぐ前を走る通りの角に、ご覧のような画が張り出されていました。
明治初期の芳町の町並みを、親父橋から見た図です。
荷車や人力車が走り、三味線を抱えた新内流しの二人連れも見えます。
数々の料亭があり、芸者がいた華街だったからです。
江戸後期の《切り絵図》を開いてみると、写真左端に《親父バシ》が見えています。
現在この橋は残っていません。
橋を渡ってきた道に《ヨシ丁》の名前があります。道の脇の町名に《堺町》と《葺屋町》が
見えていますが、このあたりに江戸の中期には芝居小屋が立ち並び、江戸歌舞伎の中心地でした。
のちに、浅草へ移転させられます。
絵図で一本下にある道筋に《銀座》があります。幕府のいわば「造幣局」ですが、いまの
銀座地区にあったものが、ここに移転してきたものです。
絵図の中央に《人形丁通り》とあります。
これが現在の地下鉄日比谷線が走っている中央の通りです。
従って、玉ひでのお隣である、わくわく亭の仕事場は、まさにその界隈ということになります。
芳町(または葭町)には芝居小屋があった当時、芝居茶屋にまじって、たくさんの(最盛期には
150軒以上の)陰間茶屋(かげま)がありました。
役者修業中の、まだ15歳前後の年若いイケメン少年たちが、お小遣い、いや生活費を
稼ぎ出すために「男色」のアルバイトをしていたのです。
その茶屋が150軒ですよ。
どんなに「男色」ファンがいたか想像を超えてしまう。
江戸はパリだったともいえるかな。
絵図をもう一度みてください。
などを囲い込む区域ですが、ここに遊郭の吉原がありました。
明暦の大火で焼亡した後、吉原は浅草へと移転しましたが、人形町の吉原を称して
元吉原といいました。
最たるもので、そこへ遊びに行くことは「悪所通い」と呼ばれたのです。
元吉原があったという遠い記憶が、大門通りという通りの名前に残されています。
その道路標識をUPします。