ああ、人生は短い

古代ローマの哲人セネカ現代日本の哲学者中島義道さんの本について。



中島さんは今時の学者にしてはめずらしい極端にニヒリスティックな本ばかり書く哲学者です。

『生きにくい…』(角川書店)の帯から:恩師の葬儀に出席するより、友人の見舞いに行くよりも、  

家で「死ぬこと」について考えることのほうが大切だ。

『私の嫌いな10の人びと』(新潮社)の帯から:「いい人」の鈍感さが我慢できない。私は、本書では

むしろ、大部分の現代日本人が好きな人、そういう人のみを「嫌い」のターゲットにしたのです。

それは、さしあたり物事をよく感じない人、よく考えない人と言うことができましょう。

と、まあ、こんなことを本のキャッチコピーに書く哲学者だから、学会ではきらわれものらしい。

しかし、学者も教養人も知識人も、本音をごまかして、ただ多忙に生きて、気がつけば寿命がつきている

というおそまつな生き方をしていると、ずけずけ痛棒を振るうから、中島ファンは「生きにくい」現代の

若者たちの間に増えているのだろう。次々と本が出る。

僕もつぎつぎ読んでいる。

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この『人生を〈半分〉降りる』(ちくま文庫)も面白い。

つまらぬ人間関係にエネルギーをついやする社会生活は半分いいかげんにしておいて、(たとえば学会や

葬式や講演会、飲み会などへ行って、心にもない挨拶をするくらいなら、嫌われてもいいから、

はじめから断ってしまう。その時間は自分のためにだけ使う。

なぜなら、人生はすぐ終わってしまうのだから)つまり〈半分降りて〉自分の人生の「かたち」を

つくるためにいそしんでください、という。

「半分は社会的に生きてごまかしを続ける。しかし、残りの半分は、けっして妥協せず自分の内部の

声をききわける」生き方をする。

そんな哲学的な生き方を選ぶと、

「あなたはかならず(世間的には)「不幸」になります。そして、それでいいのです。

不幸を覚悟し、不幸に徹して生き続けること、これこそ〈半隠遁〉の醍醐味なのですから」

という中島義道さんの哲学的生き方のすすめ、なのです。

かなり逆説的な表現をするけれど、道元の「学道」のすすめを読んでいる気がしてきます。


この本に、中島さんがしきりと引用するのがニーチェパスカルの言葉であり、古代ローマ

哲人セネカの言葉です。

中島さんに刺激され、『人生の短さについて』(PHP研究所)(浦谷計子訳)を買って、

読んだのだが、セネカの説くところは中島さんの〈半分降りる〉と同質の内容だった。

これがまた面白い。

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いくつか短い文章を引用してみよう。


「ほほ例外なくだれもが、まさに生きようとしているそのときに、人生のほうから見放されたと

気づくのです」

「だが人生は短くなどありません。与えられた時間の大半を、私たちが無駄遣いしているに

すぎないのです」

「〈われわれが実際に生きるのは人生のほんの一部にすぎないのだ〉と、かの詩人がいうように

残りの部分は人生ではなく、単なる時間というわけです」

「いま、ここを生きようとしなさい!

最も偉大な詩人ウェルギリウスも、天啓を得たかのように、こう歌い上げているではありませんか。

  哀れにも死を免れぬ人間の、生涯最良の日は、いち早く逃げ去る」



 まさにわれわれ21世紀の東京で雑用におわれて、好きでもない会社つとめや大学に通う凡人に

とって、人生はあまりにも短い。

 道元禅師の言葉を思い出す。

「無常迅速なり。生死事大なり。

 この心を存ゼんとおもわば先づすべからく無常を念フベシ。一期は夢のごとシ。

 光陰移り易シ」