石山淳氏の『幻想篇』評

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詩人石山淳さんから長文の『尾道物語・幻想篇』評をいただいた。

全文掲載すると長すぎるので、2作品についての評のみ掲載させていただきます。

石山淳さんは『田螺日記』『椅子取りゲーム』など多数のすぐれた詩集と、重厚な現代詩人論で活躍する

1934年兵庫県姫路市生まれの詩人です。

尾道物語・幻想篇』の5篇はそれぞれの新鮮味と仕掛け装置があり、少年期の思い出と

記憶の幻想を伴った郷愁が感じられる力作であると思いました。

(1)「奥の池のギンヤンマ」からは、少年心理と精神の震えが、細やかな自然描写の

リアリティーと相まって、トンボつりのギンギンしたリズム感に象徴されるように、

幾度となく去来します。

それは、手の届かない高さで誘い込むように飛翔するギンヤンマの魅力です。

また光雄と従兄の勲との交友感情、それに尾道の方言がぴったり息づいていて、ソフトなムードを

醸し出していきます。

物語の核心――行ってはいけないと言われている「奥の池」の、グンダリ明王がお祀りしてある

納屋での、そこに住む乞食との対話。「殺生のたたり」のシーンも圧巻であり、

「奥の池」の寓意性が勲の母親の死によって表現されています。

光雄は自分の母親にたたりが及ばないよう再び奥の池のほこらへ出かけていき、

その主にゆるしを乞うが、反応は返ってこなかった。(略)

折角捕らえて持ち帰ったギンヤンマも弟と蚊帳の中で遊びはしたものの、短い命を終えてしまう。

きっと、侵害してはならない場所や、覗いてはならない、不可侵の「清浄」の地があることを

悟らしめようとしているのだろう。

この作品は、いつ再読してみても生き生きとしていて、力強い手応えが感じられます。


(2)「横綱が飛んだ、あの9月」

同級生康子の「克っちゃん、それでも、ええんね?」という切ない囁きがトラウマとなり、

脳出血で弱る現在の佐竹克夫を苦しめている。

過去の事象と現在の後遺症による意識障害の時空を、想念が行き来する。

「少年の大切な思い」それは初恋に似た潜在意識であったであろう。

やせ我慢をはって、同級の陽介との相撲のカケの道具に供し、康子を陽介に紹介した、

そのツケは大きかった。

それにしても、最後の反転のセリフは意外でした。

「あなた、そんなことが、あなたを苦しめようたんですか。あなた、どうされたんね。(略)

鈴木の康子は、克夫のお嫁になったんじゃないんね。忘れたんなら、思いだしてください。

克っちゃん」

これらのセリフで――(少年期のままに)淡い恋心が今も継続しているような錯覚に襲われ、

思わず涙が濡れた。

現実はこううまくは運ばないだろうが、佐竹の後遺症の度合いが危惧された。

つまり作者の作戦にまんまと乗せられたかたちだが、それだけの力量が作品に顕れておりました。