『文学界』同人雑誌評がなくなる。

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全国に数百とも1000以上あるともされている文芸同人誌に小説を書いている人たちにとっては
残念な『文学界』の方針変更だった。この12月号をさいごに同誌の名物欄ともなっていた「同人
雑誌評」が打ちきりとなったのである。

かつて作家志望者は同人誌によって小説修業をし、いくつかの主要新聞や文芸誌にあった同人誌の
批評欄で注目されると、芥川賞直木賞の候補作品としてとりあげられるというコースがあり、
いわば作家を志すものたちの予備校が同人誌であった。

それがいつの頃からか、同人誌評にページをさく新聞、雑誌が少なくなり、文芸専門誌では、唯一文藝春秋社が発行する『文学界』だけになった。孤塁をまもっていた同誌もまた打ち切りを決定したのである。

大学や職場、あるいは地域で文学好きが集まって、自腹を切って同人誌を発行する。それを論評評価する
文芸誌があって、その批評をはげみに未来の芥川・直木賞作家をめざして創作活動をする。そして、
同人誌掲載作から受賞者が出て、新人作家が誕生する。そうした流れが主流であった時代に、わくわく亭も同人誌に参加したのであった。

しかし1970年代の後半になってから、その流れは変わってきた。作家を志すものは、同人誌には目もくれず、たくさんの文芸誌が設けた新人賞に応募するようになる。

文芸誌側でも、面倒な同人誌からの才能発掘に時間をかけるより、直接新人賞に応募してくる作品から
才能を発見する方が手っ取り早い。

かくして、同人誌は文芸誌の注目する対象ではなくなった。

同人誌側も、切磋琢磨して文芸誌が注目するだけの作品を送り出す厳しい小説修業の場であるよりも、
なごやかな文学愛好者のサロン的な場所へと変貌しつつある。

たいていの同人誌には若い書き手はいない。高齢化が進んでいる。
文学的な素養、教養は積んでいるが、新しい文学スタイルを生み出すには若さが欠如している。

他方、新人賞ネライに走る若い書き手は、マンガは読んでいても日本文学の上質な部分である
小説作品はさびしいくらい読んでいない。一発応募主義で「賞」をねらい、さいわいにも受賞
できたとしても、二の矢三の矢を射るだけの蓄積がないため、多くは一年もしないうちに消えてしまう。
そして、次々と各誌から新人賞受賞者が生まれるから、新人たちは修業をする間もなく、つぎの新人
に追い落とされていく。
まるで新人歌手のデビュー事情にそっくりなのだ。

書店には新しい本、かわいらしい本、読みやすい会話ばかりの本、童話みたいな小説本、
泣ける本、エンタメ本が洪水にように出版されて、「消費」されていく。

一ヶ月経って、また来てみれば、店頭の本のタイトルがすっかりいれかわるほどに流行が変わる。

こうした風潮にあって、同人誌の使命は本当に終わったのか?

同人誌にこそ良質の文学作品があるのではないのか。
それを見る目を、出版業界は失ってしまっているのではないのか。
さまざまな同人誌を読む機会の多いわくわく亭はそう感じている。

てなことを、いまさら、わくわく亭が呟いていても、どうなることでもない。
誰もが文句の付けようのない傑作を、たとえばドストエフスキーの『罪と罰』のような
作品を書けば、同人誌であろうと、新人賞であろうと、世界は見て見ぬふりは出来ないはずだ。

よし、それを書こうと、パソコンを開きながら、
ちょっとだけよ、と今夜もブログのページを開いてしまうから、

まだわくわく亭の『罪と罰』が完成しないのであります。