『つげ義春旅日記』(1)

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八重洲古書館でこの文庫を手に入れた。1983年6月発行だから25年前のもの。当然絶版だから、い

までは手に入りにくい稀覯本の部類だ。

定価400円の、かなりくたびれた文庫の値段としては「いい値段」である。

さすが八重洲古書館、ブックオフのような素人的な値付けはしていない。

わくわく亭は躊躇なく買った。

内容は、

・颯爽旅日記

・断片的回想記


猫町紀行

・桃源行

・対談 つげ式生活の最近

・マンガ2編(「近所の景色」「少年」)

どれも古典落語本を読むような「つげ式」ユーモアを味わえる作品ばかり。

貧乏話にしろ、創作上の苦心譚にしろ、私小説作家の回想記のように、どこか昇華した明るさが

あって、読んでいてもつらくない。話にひきこまれて、つい笑ってしまう。

2編のマンガは『隣の女』で紹介したものであるから、重複をさけて、ここでは省略する。

では、内容の所々を紹介しながら、彼の関連作品に触れてみることにしよう。



上に掲げた表紙カバーの画像は『猫町紀行』の挿絵の1枚である。

順序通りではないが、内容紹介をそのエッセイからはじめるとしよう。

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つげ義春は「温泉評論家」にあこがれていたことがある。温泉といっても、観光地となった温泉では

なくて湯治場といった鄙びた安宿をさがしてまわりながら貧乏紀行を書いて生活できないかな~という

あこがれであった。

しかし「温泉評論家」はあきらめた。

なぜ?

そのわけを「対談 つげ式生活の最近」で語っている。

正津(対談者、詩人):マンガなんかやめちゃって、温泉評論家になってデビューしたら?

つげ:あれ、モトかかるからね。全国旅してたら破産しちゃう(笑)。

だからあのトラベル・ライターって人たちは、何かのかたちでどっかから金が出て、

その資料を元にして、あとで色々本を書いてるんですよね。

いちいち本出すたびに旅行してたら、とっても合わないですよ。

ということで、つげが行った温泉地は安上がりの湯治場であり、安宿であり、費用は自前の小旅行

ということになった。

しかし、そうした貧乏旅行からつげは数々の傑作マンガを生みだしているのである。


あるいは、友人が運転する車に乗せて貰って、日帰りのドライブをしている。

あるとき、友人に誘われて山梨県の旧甲州街道沿いに残る犬目宿という宿場をたずねるドライブをした。

1970年ころのことらしいが、ちらと、それらしい町を山中に見かけたものの、それを

犬目宿だと確認しないまま通り過ぎた。

通り過ぎてから、さっきのが目的の宿場町ではないか、バックして戻ろう、と言えないところが

つげ義春らしいところ。

さらに5,6年たって、おなじ友人にさそわれて、同じルートをたどって犬目宿を訪ねようとするが

結局は道に迷ってしまって犬目宿には辿りつけなかった。

そばまで行きながら行き着くことが出来ないことから、幻の犬目宿となった。

となると、さいしょに山中で見かけたあの町が犬目宿だったという思いがつよくなった。

「犬目」という風変わりな名称から、「猫町」が連想された。

つげが17,8歳で読んだ萩原朔太郎の散文『猫町』のことである。

わくわく亭は『猫町』がどんな作品だったか覚えていないので、ネットで探して読んでみた。



その朔太郎の幻想的な散文では、「私」なる主人公は北越の温泉町へ遊びに行き、その近くの町を

訪れたときの幻想というか幻覚として見た神秘的な光景を描いている。

村人は、そうした町の不思議について語る。

近所の村から湯治に來て居る人たちは、一種の恐怖と嫌惡の感情とで、
私に樣々のことを話してくれた。

彼等の語るところによれば、或る部落の住民は犬神に憑かれて居り、
或る部落の住民は猫神に憑かれて居る。

犬神に憑かれたものは肉ばかりを食ひ、猫神に憑かれたものは魚ばかり食つて生活して居る。

「私」は道に迷って、ある町にたどりつく。

街は人出で賑やかに雜鬧して居た。そのくせ少しも物音がなく、閑雅にひつそりと靜まりかへつて、
深い眠りのやうな影を曳いてた。

それは歩行する人以外に、物音のする車馬の類が、一つも通行しないためであつた。
だがそればかりでなく、群集そのものがまた靜かであつた。

男も女も、皆上品で愼み深く、典雅でおつとりとした樣子をして居た。
特に女性は美しく、淑やかな上にコケチツシユであつた。

店で買物をして居る人たちも、往來で立話をして居る人たちも、皆が行儀よく、
諧調のとれた低い靜かな聲で話をして居た。

それらの話や會話は、耳の聽覺で聞くよりは、何かの或る柔らかい觸覺で、
手觸りに意味を探るといふやうな趣きだつた。

とりわけ女の人の聲には、どこか皮膚の表面を撫でるやうな、甘美でうつとりとした魅力があつた。
すべての物象と人物とが、影のやうに往來して居た。

瞬間。萬象が急に靜止し、底の知れない沈默が横たはつた。何事かわからなかつた。

だが次の瞬間には、何人(ぴと)にも想像されない、世にも奇怪な、恐ろしい異變事が現象した。
見れば町の街路に充滿して、猫の大集團がうようよと歩いて居るのだ。

猫、猫、猫、猫、猫、猫、猫。どこを見ても猫ばかりだ。

そして家々の窓口からは、髭の生えた猫の顏が、額縁の中の繪のやうにして、
大きく浮き出して現れて居た。

しかし、その幻覚は瞬時に消えて、風景は彼が滞在していた温泉の町に戻るのだ。

そして「三半規管」の変調による異常だったと、朔太郎は合理的な解説をつけて作品は終わる。


つげ義春は朔太郎の『猫町』のイメージを、彼が瞬間眺めすぎた「犬目宿」らしき町の光景に

重ね合わせて、数枚のファンタスティックな絵を描いて見せてくれたのである。

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               (2)へつづく