小津が撰した「山中貞雄之碑」の追悼文

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映画監督山中貞雄は1938(昭和13)年、中国の野戦病院で病没。

28歳10ヶ月という若さだった。

この写真はその1938年に戦地で撮影されたと思われる。

彼の死後3年経った1941(昭和16)年、彼を慕う映画人たちの手によって、菩提寺である

京都上京区三番町(あるいは、上京区七本松出水下る西側)の大雄寺に追悼のため、

山中貞雄之碑」が建立された。

碑文は小津安二郎が撰したといわれている。(岸松雄氏による)

書はまちがいなく小津安二郎の手である。

岸松雄氏が製した拓本の一部を、わくわく亭が撮影したのでUPする。

滋味のある小津さんの筆跡をご覧頂きましょう。

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さて、「碑文」であるが、ネットで検索してみたところ、一、二行の引用、紹介はあっても、

全文を掲載したサイトは見当たらなかった。

岸松雄さん(山中貞雄の親友であり、山中の伝記も書いた映像作家)が寄贈した碑の拓本が


昨日わくわく亭は、あの大雨の中、フィルムセンターで碑文の全文を、30分ほどかかって

立ったままで書写してきた。(椅子はないからね)

雨で、暗い展示場にはわくわく亭のほかに客はいなかった。

と、まぁ、苦労話を枕にして、小津安二郎が、弟のように可愛がった好漢山中貞雄の才能と

人物を惜しんで追悼した、名文をご披露する。


                     山中貞雄之碑

山中貞雄死を聖戦の大義に奉り忠魂永へる靖国の社に招かる。

山中貞雄生を芸能の大道に致し鬼雄千載映画の史乗に耀かん。
(鬼雄とは「死んで鬼の中の雄者となっても」、という李清照の項羽をうたった漢詩からとっている言葉で、死んだ後千年たっても映画史に耀く、と頌えている)

君は明治42年11月7日京都市五條本町に喜左衛門氏五男として生る。

学業を京都一商に卒へるや性来(=生来)信愛措かざりし映画の道に志を得べく

マキノ撮影所に入り、脚色及び監督助手の任に精励す。

後寛寿郎映画(=嵐寛寿郎の映画プロダクション)に転じ始めて宿志を延べ

監督として処女作「抱寝の長脇差」を作り才幹の凡ならざるを示す。23歳の秋なり。

爾後作品を重ねる毎に天稟愈々冴へ鏤刻益々凝って克く(よく)時代劇映画の芸域を伸展し

請はれて日活京都撮影所に移るや「盤嶽の一生」(ばんがくのいっしょう)「国定忠治」

「街の入墨者」「河内山宗俊」等幾多の名作を世に問ふ。

その匠意の逞しさ、格到の美しさ、洵に(まことに)本邦芸能文化史上の亀鑑(きかん)

として朽ちざるべし。

昭和12年春東宝撮影所に迎へられ、気を負ふて「人情紙風船」の作を成すや

幾十もなくして日支事変勃発し、名誉ある公務に応じ陸軍歩兵伍長として出征、

支那各地に転戦すること一歳余り、遂に徐州の野に陣歿曹長に進級す。

享年30歳。昭和13年9月17日なり。

君生得一途映画道に精進し映画の中に師弟知友を視、愛すべき特偉の風格掬すべき純撲の性情

傾けて之れ盡く(ことごとく)映画に親昵しさり、茲に(ここに)友人有志相寄りて

その至情を酬ひ、興亜聖業の礎石たる君が勲功を彰し、その菩提を弔ひ訪る者に然く語るなり。

皇紀二千六百年建立。