徳永英明…つづき
写真は徳永が、まだデビューまもない25歳のころもので、新宿のライブハウス「ルイード」で歌っている。
きょうの記事で、わくわく亭には、ひとつ腑に落ちたことがあった。
彼の初のヒット曲となる『輝きながら…』のことだ。
僕はこの曲に徳永英明らしさが感じられなくて、好きになれないでいたのだが、徳永自身がこの
曲に違和感を抱いていたらしいので、「やっぱり、そうか」と思ったワケなのだ。
そのことを、新聞の記事を要約しながら、ちょっと説明しよう。
☆
徳永は『Rainy Blue』で「シンガー・ソングライター」としてデビューしたものの、その後さっぱり売れず、ようやく3枚目のアルバムのシングルカット『輝きながら…』が大ヒットした。
しかし『Rainy Blue』の詩を書いた大木誠は、
「ヤシの木とオープンカーのセットで歌う徳永の姿を見て、違和感を覚えた」
と証言している。
「ヤシの木とオープンカーのセットで歌う徳永の姿を見て、違和感を覚えた」
と証言している。
『輝きながら…』の作曲者であり、当時のプロデューサーでもあった鈴木キサブローは、
「彼はイヤでしょうがなかっただろうね。これまで自分の歌で勝負してきたのに、人の曲を
歌わなきゃならないんだから」
といっている。
「彼はイヤでしょうがなかっただろうね。これまで自分の歌で勝負してきたのに、人の曲を
歌わなきゃならないんだから」
といっている。
『輝きながら…』は28万枚を売り上げて、CMソングとしても採用されるヒットとなった。
だが、
徳永は「ライブでこの歌を歌わない時期があった。そこにはある葛藤があった」
だが、
徳永は「ライブでこの歌を歌わない時期があった。そこにはある葛藤があった」
そして、「自分の本当に歌いたい歌を作る」ために独立をする。
独立して初のシングルが『壊れかけのRadio』だった。大ヒットとなった。
「ライブで『輝きながら…』を歌うことはほとんどなくなっていた」
「ライブで『輝きながら…』を歌うことはほとんどなくなっていた」
☆
この特集記事を書いているのは、渡部薫さんという記者である。
おそらく、自分の作った歌が歌いたくて独立した徳永は、他人の作った歌である『輝きながら…』に
違和感を覚えていたからライブでは歌わなかった。
ところが、予期しない大病をして休業を余儀なくされた、ながいシンガーとして空白の時間に、
徳永にある変化が起きた。そして、他人が作った名曲をカバーする仕事をすることで、
シンガーとして甦る。
と、記者は来週の連載記事を書くのだと思われる。
それは、それでいい。徳永の病気休業中の心境の変化については知りたいところだから。
ただし、わくわく亭が『輝きながら…』に徳永らしさがなくて好きになれなかった、という点について
もう少し考えてみたい。
☆
徳永がデビューする前から、彼のコンサート・スタッフとして仕事をしてきた友人の毛塚たもつは、
徳永の性格を、こう語る。
「徳さんは何でも思い悩むんだ。女々しいぐらい。悩んで、苦しんで、それを曲にぶつける。
ずっとその繰り返しだったね」
ずっとその繰り返しだったね」
徳永のベストは『Rainy Blue』と『壊れかけのRadio』の2曲であるし、1曲を選ぶとすれば、
『壊れかけのRadio』となろう。
『壊れかけのRadio』となろう。
「不器用にもがきながら生きる若者の繊細な心情を歌に紡ぐ」のが徳永の曲だといえる。
他人が作った曲であっても、その繊細な心情を歌ったものであれば、徳永の琴線に触れるはずなのだ。
「繊細な心情」となると、「女歌」が近い。
彼が再起してカバーした他人が作った歌が、ほとんどすべて「女歌」だった理由はそこにあったのだ。
「女々しいくらい、思い悩む」性格の徳永英明の内面に、あの「ヤシの木とオープンカーのセットで
歌う」ような、ねつ造された、明るく輝く風景は、本来存在しにくいものなのだ。
あの『輝きながら…』を歌うとき、うそうそとした、こしらえものの輝く青春像に、徳永英明は
違和感を抱いたにちがいない。
だから、彼はライブで歌わなかった。
つくられた「輝き」を歌いたくなかった。
徳永にとって、青春とは、若さとは、「女々しく、思い悩む」時代のことなのだ。