徳永英明…つづき

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朝日新聞土曜版“be on Saturday”に先週につづいて徳永英明の特集記事があった。
(3回連載で、あと一回来週もつづきがある)

写真は徳永が、まだデビューまもない25歳のころもので、新宿のライブハウス「ルイード」で歌っている。

きょうの記事で、わくわく亭には、ひとつ腑に落ちたことがあった。

彼の初のヒット曲となる『輝きながら…』のことだ。

僕はこの曲に徳永英明らしさが感じられなくて、好きになれないでいたのだが、徳永自身がこの

曲に違和感を抱いていたらしいので、「やっぱり、そうか」と思ったワケなのだ。


そのことを、新聞の記事を要約しながら、ちょっと説明しよう。

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徳永は『Rainy Blue』で「シンガー・ソングライター」としてデビューしたものの、その後さっぱり売れず、ようやく3枚目のアルバムのシングルカット『輝きながら…』が大ヒットした。

しかし『Rainy Blue』の詩を書いた大木誠は、
「ヤシの木とオープンカーのセットで歌う徳永の姿を見て、違和感を覚えた」
と証言している。

『輝きながら…』の作曲者であり、当時のプロデューサーでもあった鈴木キサブローは、
「彼はイヤでしょうがなかっただろうね。これまで自分の歌で勝負してきたのに、人の曲を
歌わなきゃならないんだから」
といっている。

『輝きながら…』は28万枚を売り上げて、CMソングとしても採用されるヒットとなった。
だが、
徳永は「ライブでこの歌を歌わない時期があった。そこにはある葛藤があった」

そして、「自分の本当に歌いたい歌を作る」ために独立をする。

独立して初のシングルが『壊れかけのRadio』だった。大ヒットとなった。
「ライブで『輝きながら…』を歌うことはほとんどなくなっていた」

               ☆

この特集記事を書いているのは、渡部薫さんという記者である。

おそらく、自分の作った歌が歌いたくて独立した徳永は、他人の作った歌である『輝きながら…』に

違和感を覚えていたからライブでは歌わなかった。

ところが、予期しない大病をして休業を余儀なくされた、ながいシンガーとして空白の時間に、

徳永にある変化が起きた。そして、他人が作った名曲をカバーする仕事をすることで、

シンガーとして甦る。

と、記者は来週の連載記事を書くのだと思われる。

それは、それでいい。徳永の病気休業中の心境の変化については知りたいところだから。

ただし、わくわく亭が『輝きながら…』に徳永らしさがなくて好きになれなかった、という点について

もう少し考えてみたい。

               ☆

徳永がデビューする前から、彼のコンサート・スタッフとして仕事をしてきた友人の毛塚たもつは、

徳永の性格を、こう語る。

「徳さんは何でも思い悩むんだ。女々しいぐらい。悩んで、苦しんで、それを曲にぶつける。
ずっとその繰り返しだったね」

徳永のベストは『Rainy Blue』と『壊れかけのRadio』の2曲であるし、1曲を選ぶとすれば、
『壊れかけのRadio』となろう。

「不器用にもがきながら生きる若者の繊細な心情を歌に紡ぐ」のが徳永の曲だといえる。

他人が作った曲であっても、その繊細な心情を歌ったものであれば、徳永の琴線に触れるはずなのだ。

「繊細な心情」となると、「女歌」が近い。

彼が再起してカバーした他人が作った歌が、ほとんどすべて「女歌」だった理由はそこにあったのだ。

「女々しいくらい、思い悩む」性格の徳永英明の内面に、あの「ヤシの木とオープンカーのセットで

歌う」ような、ねつ造された、明るく輝く風景は、本来存在しにくいものなのだ。

あの『輝きながら…』を歌うとき、うそうそとした、こしらえものの輝く青春像に、徳永英明

違和感を抱いたにちがいない。

だから、彼はライブで歌わなかった。

つくられた「輝き」を歌いたくなかった。

徳永にとって、青春とは、若さとは、「女々しく、思い悩む」時代のことなのだ。