『橋づくし』(6)暁橋

イメージ 1

イメージ 2


第五の橋は暁橋(あかつきばし)である。
三島由紀夫の小説『橋づくし』では、この橋を次のように紹介している。


第五の暁橋の、毒々しいほど白い柱がゆくてに見えた。奇抜な形にコンクリートで築いた柱に、白い塗料が塗ってあるのである。(略)
橋を渡れば、聖路加病院の車廻しの前である。


三島が「毒々しいほど白い柱」と表現したのが、これであるが、たしかに中央部分が白くなっている。
しかし、色がはげ落ちたか、退色したか、「毒々しい」と強調するほどの白色ではない。

暁橋が「奇抜な形」と形容されれば、中央部のふくらみは多少奇抜かもしれない。
なにより奇抜なのは、三島は見ていないことではあるが、橋の床がないことだろう。
川が埋め立てられたから、中央は道路になってしまい、残る両サイドの石の手摺りは、橋を記憶するモニュメントにすぎないからである。

橋の前に、聖路加がある。今日その建物は聖路加看護大学となっており、東側に隣接して聖路加病院がある。
「車廻し」の写真をUPしよう。

イメージ 3


          ―――――――――――――――――――――――――――

ここで芸者の小弓の身に、不運が起きた。

「ちょいと小弓さん、小弓さんじゃないの。(略)知らん顔はひどいでしょう。ねえ、小弓さん」
銭湯帰りの老女が、小弓の名前を呼んだのである。
新橋で芸者に出ていたことがある小えんという老妓だった。
口をきいてはいけないから、小弓は目を伏せて小えんから逃げようとするのだが、
相手に肩をつかまえられて、
「めずらしいところで会ったわねえ、小弓さん」とひきとめられて、小弓は観念して、目を上げて
相手を見た。


そのとき小弓の感じたことがある。いくら返事を渋っていても、一度知り人から話しかけられたら、
願はすでに破れたのである。


42歳の小弓にとって、孤独な老妓として生きたくなければ、まとまったお金がほしいと願って無理はない。
いま、小弓の願掛けは破れてしまったのである。

満佐子も小えんに見覚えがあったから、彼女が小弓をつかまえたのを見て、どんどん先へ立った。
小えんが満佐子の顔を忘れていたことは僥倖(ぎょうこう)だった。

いまは2人だけになった、満佐子と女中の「みな」は第六の橋へといそぐ。
まばらに、雨が降ってきた。

          ―――――――――――――――――――――――――――

この聖路加病院がある明石町かいわいは、近代日本の歴史を物語る標識がたくさん立っている。
ついでに、いくつか案内しましょう。



聖路加看護大学の車廻し左手に、
1.「芥川龍之介生誕の地」
  耕牧舎という乳牛牧場がここにあり、その経営者新原敏三の長男として、龍之介は
  明治25年3月誕生しました。
  あの神経質そうな顔がトレードマークの龍之介くんも、乳牛牧場で生まれたのだから、
  ご幼少のころは、ミルクはいつもたっぷり飲んでいたんでしょうね。(笑)

イメージ 4


2.芥川誕生の地の標識から十メートルほどはなれて、石碑があります。
  「浅野内匠頭邸跡」
  忠臣蔵で有名な、あの浅野家の屋敷跡です。内匠頭の刃傷事件後、没収されるまで
  この築地川沿いから、聖路加がある居留地跡から隅田川べりまで9000坪を占める
  浅野家江戸屋敷があったのです。

  吉良家討ち入りの後、泉岳寺へ引き揚げる義士の一行は、鉄砲洲からこの場所へと道を
  たどり、旧浅野家屋敷門前で頭をたれ挨拶をしたと伝えられます。

イメージ 5


3.「蘭学事始の地」と「慶應義塾発祥の地」の石碑。
  聖路加の前を通る道路の真ん中に、離れ小島のように作られた2基の石碑があります。
  どちらも、この地にあった中津藩(大分県)奥平家中屋敷に関係があります。

  『蘭学事始』を書いたのは杉田玄白ですが、ここで書いたものではないです。ではなぜ、
  「蘭学事始の地」と史跡にしたかというと、中津藩医だった前野良沢が、屋敷内で杉田玄白
  桂川甫周らとともにオランダ語解剖書を翻訳して「解体新書」を完成させた現場だったということ。

  いまひとつ、「解体新書」完成までの苦難を詳細に書きつづった玄白の『蘭学事始』は、
  江戸時代には写本として細々と伝わっていたのを、明治2年、前野良沢とおなじ中津藩士で 
  あった福沢諭吉が、それを公刊して広く世に伝えたという歴史があるからです。

  福沢諭吉は中津から江戸に出てきて、藩の中屋敷内で蘭学塾をはじめます。安政5(1858)
  年のことです。その塾を慶應4(1868)年に「慶應義塾」と改名するのですが、それで
  この地を「慶應義塾発祥の地」と名づけています。

写真の出来は良くありません。
  碑文がまったく読めないでしょう。眺めるだけにしてください。
  左が「蘭学事始の地」、右が「慶應義塾発祥の地」の石碑です。

イメージ 6イメージ 7
















史跡の位置関係をかわりやすくするために、案内板を追加しておきます。

イメージ 8