『橋づくし』(6)暁橋
三島が「毒々しいほど白い柱」と表現したのが、これであるが、たしかに中央部分が白くなっている。
しかし、色がはげ落ちたか、退色したか、「毒々しい」と強調するほどの白色ではない。
しかし、色がはげ落ちたか、退色したか、「毒々しい」と強調するほどの白色ではない。
暁橋が「奇抜な形」と形容されれば、中央部のふくらみは多少奇抜かもしれない。
なにより奇抜なのは、三島は見ていないことではあるが、橋の床がないことだろう。
川が埋め立てられたから、中央は道路になってしまい、残る両サイドの石の手摺りは、橋を記憶するモニュメントにすぎないからである。
なにより奇抜なのは、三島は見ていないことではあるが、橋の床がないことだろう。
川が埋め立てられたから、中央は道路になってしまい、残る両サイドの石の手摺りは、橋を記憶するモニュメントにすぎないからである。
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ここで芸者の小弓の身に、不運が起きた。
「ちょいと小弓さん、小弓さんじゃないの。(略)知らん顔はひどいでしょう。ねえ、小弓さん」
銭湯帰りの老女が、小弓の名前を呼んだのである。
新橋で芸者に出ていたことがある小えんという老妓だった。
口をきいてはいけないから、小弓は目を伏せて小えんから逃げようとするのだが、
相手に肩をつかまえられて、
「めずらしいところで会ったわねえ、小弓さん」とひきとめられて、小弓は観念して、目を上げて
相手を見た。
銭湯帰りの老女が、小弓の名前を呼んだのである。
新橋で芸者に出ていたことがある小えんという老妓だった。
口をきいてはいけないから、小弓は目を伏せて小えんから逃げようとするのだが、
相手に肩をつかまえられて、
「めずらしいところで会ったわねえ、小弓さん」とひきとめられて、小弓は観念して、目を上げて
相手を見た。
そのとき小弓の感じたことがある。いくら返事を渋っていても、一度知り人から話しかけられたら、
願はすでに破れたのである。
42歳の小弓にとって、孤独な老妓として生きたくなければ、まとまったお金がほしいと願って無理はない。
いま、小弓の願掛けは破れてしまったのである。
いま、小弓の願掛けは破れてしまったのである。
満佐子も小えんに見覚えがあったから、彼女が小弓をつかまえたのを見て、どんどん先へ立った。
小えんが満佐子の顔を忘れていたことは僥倖(ぎょうこう)だった。
小えんが満佐子の顔を忘れていたことは僥倖(ぎょうこう)だった。
いまは2人だけになった、満佐子と女中の「みな」は第六の橋へといそぐ。
まばらに、雨が降ってきた。
まばらに、雨が降ってきた。
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この聖路加病院がある明石町かいわいは、近代日本の歴史を物語る標識がたくさん立っている。
ついでに、いくつか案内しましょう。
ついでに、いくつか案内しましょう。
聖路加看護大学の車廻し左手に、
1.「芥川龍之介生誕の地」
耕牧舎という乳牛牧場がここにあり、その経営者新原敏三の長男として、龍之介は
明治25年3月誕生しました。
あの神経質そうな顔がトレードマークの龍之介くんも、乳牛牧場で生まれたのだから、
ご幼少のころは、ミルクはいつもたっぷり飲んでいたんでしょうね。(笑)
1.「芥川龍之介生誕の地」
耕牧舎という乳牛牧場がここにあり、その経営者新原敏三の長男として、龍之介は
明治25年3月誕生しました。
あの神経質そうな顔がトレードマークの龍之介くんも、乳牛牧場で生まれたのだから、
ご幼少のころは、ミルクはいつもたっぷり飲んでいたんでしょうね。(笑)
2.芥川誕生の地の標識から十メートルほどはなれて、石碑があります。
「浅野内匠頭邸跡」
忠臣蔵で有名な、あの浅野家の屋敷跡です。内匠頭の刃傷事件後、没収されるまで
この築地川沿いから、聖路加がある居留地跡から隅田川べりまで9000坪を占める
浅野家江戸屋敷があったのです。
「浅野内匠頭邸跡」
忠臣蔵で有名な、あの浅野家の屋敷跡です。内匠頭の刃傷事件後、没収されるまで
この築地川沿いから、聖路加がある居留地跡から隅田川べりまで9000坪を占める
浅野家江戸屋敷があったのです。
3.「蘭学事始の地」と「慶應義塾発祥の地」の石碑。
聖路加の前を通る道路の真ん中に、離れ小島のように作られた2基の石碑があります。
どちらも、この地にあった中津藩(大分県)奥平家中屋敷に関係があります。
聖路加の前を通る道路の真ん中に、離れ小島のように作られた2基の石碑があります。
どちらも、この地にあった中津藩(大分県)奥平家中屋敷に関係があります。
『蘭学事始』を書いたのは杉田玄白ですが、ここで書いたものではないです。ではなぜ、
「蘭学事始の地」と史跡にしたかというと、中津藩医だった前野良沢が、屋敷内で杉田玄白、
桂川甫周らとともにオランダ語解剖書を翻訳して「解体新書」を完成させた現場だったということ。
「蘭学事始の地」と史跡にしたかというと、中津藩医だった前野良沢が、屋敷内で杉田玄白、
桂川甫周らとともにオランダ語解剖書を翻訳して「解体新書」を完成させた現場だったということ。
いまひとつ、「解体新書」完成までの苦難を詳細に書きつづった玄白の『蘭学事始』は、
江戸時代には写本として細々と伝わっていたのを、明治2年、前野良沢とおなじ中津藩士で
あった福沢諭吉が、それを公刊して広く世に伝えたという歴史があるからです。
江戸時代には写本として細々と伝わっていたのを、明治2年、前野良沢とおなじ中津藩士で
あった福沢諭吉が、それを公刊して広く世に伝えたという歴史があるからです。
福沢諭吉は中津から江戸に出てきて、藩の中屋敷内で蘭学塾をはじめます。安政5(1858)
年のことです。その塾を慶應4(1868)年に「慶應義塾」と改名するのですが、それで
この地を「慶應義塾発祥の地」と名づけています。
年のことです。その塾を慶應4(1868)年に「慶應義塾」と改名するのですが、それで
この地を「慶應義塾発祥の地」と名づけています。
史跡の位置関係をかわりやすくするために、案内板を追加しておきます。