築地川(4)「新富町」

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清方の絵「築地橋」を見たときに、橋から近い新富座について書きましたが、彼には昭和5年制作の「新富座」という美人画があります。

雨の中、新富座前を、傘をさして行き過ぎる美人は、もちろん清方が愛してやまない明治期の女です。
髪型こそ違え、白い横顔は、「築地川春雨」の女によく似ています。

女の背景として新装なった新富座が雨のとばりにさえぎられて、うっすらとその姿をみせています。


浅草から守田(森田)座がこの地へ移転してきたのが明治5年。
8年に新富座に改名しますが、9年に消失します。

11年に再建され、近代歌舞伎の誕生を予告する新富座として新装開場式がみぎみぎしく挙行されました。

太政大臣、政府高官、東京府知事、知名人たち1000人余が招待される一大盛時でした。

座主の守田勘弥市川団十郎尾上菊五郎市川左団次、中村芝勘らの名優を招いて、荒唐無稽な江戸歌舞伎狂言から脱皮して、近代的な感覚の(事実に即した狂言)芝居をする「活歴」を立ち上げようとします。

つぎの風俗画(国政筆)には明治11年の「新富生本普請落成夜劇場観客群衆図」という長いタイトルがついています。再建した新富座の内部です。
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もう一枚、「市川左団次上京之図」(国松筆)というもので、明治15年制作です。
新富座前に勢揃いした花形役者たちです。
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鏑木清方の絵「築地橋」には橋たもとに数本、役者の名前を染めたのぼりが画かれていました。
その中に、市川左団次の名前がありました。

木製の橋が架けられた年代推定から、清方が画いた風景は明治19年前後であり、清方8歳ころの記憶に
もとづくものだろうと推測しましたが、上方役者である市川左団次が上京して、新富座に出演するようになった上記の年代からしても、明治18~19年、清方7~8歳ころの想い出から画かれた「築地橋」
という推定は、当たらずといえども遠からず、ではないでしょうか。