清方の絵「築地橋」を見たときに、橋から近い
新富座について書きましたが、彼には昭和5年制作の「
新富座」という
美人画があります。
雨の中、
新富座前を、傘をさして行き過ぎる美人は、もちろん清方が愛してやまない明治期の女です。
髪型こそ違え、白い横顔は、「築地川春雨」の女によく似ています。
女の背景として新装なった
新富座が雨のとばりにさえぎられて、うっすらとその姿をみせています。
浅草から守田(森田)座がこの地へ移転してきたのが明治5年。
8年に
新富座に改名しますが、9年に消失します。
11年に再建され、近代歌舞伎の誕生を予告する
新富座として新装開場式がみぎみぎしく挙行されました。
つぎの風俗画(国政筆)には明治11年の「新富生本普請落成夜劇場観客群衆図」という長いタイトルがついています。再建した
新富座の内部です。
もう一枚、「
市川左団次上京之図」(国松筆)というもので、明治15年制作です。
新富座前に勢揃いした花形役者たちです。
鏑木清方の絵「築地橋」には橋たもとに数本、役者の名前を染めたのぼりが画かれていました。
その中に、
市川左団次の名前がありました。
木製の橋が架けられた年代推定から、清方が画いた風景は明治19年前後であり、清方8歳ころの記憶に
もとづくものだろうと推測しましたが、上方役者である
市川左団次が上京して、
新富座に出演するようになった上記の年代
からしても、明治18~19年、清方7~8歳ころの想い出から画かれた「築地橋」
という推定は、当たらずといえども遠からず、ではないでしょうか。