テネシー・ワルツ

http://www.youtube.com/v/No-oO-tucwE&hl=ja
ティー・ペイジの唄う「テネシー・ワルツ」です。


YOUTUBEから転載したもので、いくつか違うステージの画像が収められています。

1950年に発売され、その年の12月から翌年の2月まで、全米ヒットチャートの一位を独走して、その年に600万枚が、そして通算して1500万枚が売れる伝説的な巨大ヒットになった曲です。

YOUTUBEから転載の2枚目は、おそらく1950年に発売されたレコード曲を流しながら、たくさんのパティー・ペイジのレコードのジャケットや写真のコレクションを編集した投稿作品です。若く美しかったパティーの写真もあって、わくわく亭には、アメリカ大衆文化がもっとも光り輝いて時代が思いだされてきます。



ティー・ペイジは1927年オクラホマ州の生まれですから、「テネシー・ワルツ」をレコーディングした年には23歳になっています。

その歌は日本でも大流行しました。パティー・ペイジの英語で聞いていた人も、特に東京には、たくさんいましたが、日本人の多くは、日本人の歌手の歌として聞いたのです。

その世界的大ヒットをうけて、日本でもレコードがつくられたのが、1952年で、江利チエミちゃんが唄ったのでした。そのとき、チエミは14歳でしたから、ちゃんづけがおかしくない少女だったのです。
(正確には1937年1月生まれのチエミは、レコード発売時には満で15歳でしたが、レコード会社としては、当時大スターになっていた美空ひばりに対抗するために、低年齢であるほど売り出しやすかったのでした)

江利チエミが唄ったものは、英語の原詩と日本語の訳詞を半分半分にしたものでした。ラジオから流れてくるその歌の英語は、いま聞いてみれば決して上手とはいえませんが、当時の日本はGHQの統治下にあって、アメリカナイズしたものが大衆の人気を博したのです。

米軍のキャンプ地で英語まじりに唄った曲が、都市部の若者に支持されて、最新のアメリカ文化として
都市から地方へと広がっていったのです。アメリカからやってきた洋楽はなんであれ「ジャズ」と総称されていました。英語と日本語をチャンポンにして唄うスタイルが「ジャズ」っぽく、大衆にアピールしたのでした。

チエミのレコードが発売された1952年1月、日本はまだGHQ(連合軍総司令部)の統治下にありました。日本がサンフランシスコ平和条約の締結をして連合国との戦争状態を正式に終結し、GHQの占領が終わったのがその1952年の春のことですから。その春に、日本は国の主権を回復したのでした。

江利チエミが唄った「テネシー・ワルツ」を「ジャズ」として瀬戸内の田舎町で、ラジオの電波できいていたわくわく亭は、まだ小学生でした。
すぐに日本語の歌詞の部分だけを覚えて歌ったものでした。英語の部分はチンプンカンプンでしたから。

ここに江利チエミの歌った日本語の歌詞を引用してみましょう。

和田寿三訳詞です。

   去りにし夢あのテネシーワルツ なつかし愛の歌
   面影しのんで今宵もうとう うるわしテネシーワルツ

   思い出なつかしあのテネシーワルツ 今宵も流れくる
   別れたあの娘(こ)よ今はいずこ 呼べど帰らない

この訳詞では、男が別れた恋人(娘)をワルツを聞きながら偲んでいることになっているだけで、
原詩のドラマティックな哀愁を帯びた内容を伝えていない。
だから、わくわく亭は英語で歌詞を覚えるまで、テネシーワルツを踊った夜に、自分の親友に自分の恋人を奪われたという、こころの傷みを伴う想い出を歌っているということをまったく知らなかった。

ティー・ペイジが歌う英語の歌詞はつぎの通りです。

I was dancin' with my darlin'
To the Tennessee waltz,
When an old friend I happened to see.
Introduced her to my loved one,
And while they were dancin',
My friend stole my sweetheart from me.

I remember the night,
And the Tennessee waltz,
Now I know just how much I've lost,
Yes I lost my little darlin',
The night they were playin',
To the beautiful Tennessee waltz.

 わたし(女)はダーリンとテネシー・ワルツを踊っていた。
 そのとき偶然わたしの旧い友達に会ったから、彼女にわたしの愛する人を紹介したのよ。
 二人が踊っている間に、彼女はわたしから、わたしの恋人を奪っていった。

 わたしは憶えている、あの夜とあのテネシー・ワルツを。
 いまもわたしがどんなに大切なものを失ったのか、わかるわ。
 そうよ、わたしは大切なダーリンを失った。
 二人があのうつくしいテネシー・ワルツを踊ったあの夜に。

この(わくわく亭が即席で訳した)歌詞と江利チエミが歌った日本語歌詞を比べてみながら、原詩のもっている物語性にひかれてしまいます。
1950年のアメリカで、数百万というアメリカ人がパティーの甘く切ない歌声で語られた、この親友に恋人を盗まれたという悲しみの物語に魅了されたのです。
 そこには、まだ素朴な、人間くさい、よきアメリカが、むせかえるような自然の香りがする若々しい
アメリカの夜の宴(うたげ)が、たしかにあったのです。

アメリカの土の匂いがします。

それもそのはずで、R・スチュアートの作詞、P.W.キングの作曲で1948年に生まれたこの曲は
かれらの「Golden West Cowboy」というカントリー・グループのためにつくられたのでした。

そのカントリー曲をアメリカン・ポップスとしてカバーしたのがパティー・ペイジの歌でした。

この曲の歴史をたどるために、ここで、江利チエミの歌う「テネシー・ワルツ」をUPしようかどうか迷ったのですが、一気に現代まで飛ぶことにしました。

そして、2008年のアメリカを代表する歌姫であるノラ・ジョーンズが歌う現代の「テネシー・ワルツ」を聞くことにしました。(これもYOUTUBEから)