木村伊兵衛(10)鏡花・弴

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泉鏡花と里見弴です。1938年の撮影で、鏡花の家で撮ったそうです(おそらく東京の番町)。

写真作品としては、平凡な出来だと思います。

 しかし、泉鏡花(右)は稀代の写真嫌いだったそうで、こうした写真を撮ったと言うだけで、お手柄だったのだと写真集の解説は書いています。

 鏡花は写真の翌年の1939年に65歳で他界しますから、これが最後の貴重な写真となりました。
左の里見弴は、この年49歳でした。

 なんとしてでも写真嫌いの鏡花を撮りたいと、当時鏡花を文芸の師と仰いでいた里見弴をひっぱりだしてきて、二人が「なにげない会話をかわしている」光景として写したそうですが、芝居が下手な里見弴はあらぬ方角を見ているし、鏡花ときたら、めちゃめちゃ緊張して、「ないげない会話」どころか、すっかり固まっています。

 小道具の煙管が、ちっとも「自然」じゃない。鏡花の目線が気の毒なほどの不自然さ。

 木村伊兵衛の苦労のほどが想像できますね。

 写真集の解説では、「そのとき、鏡花はかたくなって、カメラの方に顔を向けることもできず、その手は小きざみにブルブルとふるえていた、と木村氏は伝えている」とあります。

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 泉鏡花の名前は知っていても、どんな作家だったか知らない人も多いでしょうから、ごく簡単に紹介します。

 明治6年に金沢で生まれ、『金色夜叉』で有名な尾崎紅葉に憬れて上京し、尾崎家の住み込みの書生となります。
 江戸文藝の流れをひいた『高野聖』(こうやひじり)『歌行燈』(うたあんどん)『婦系図』(おんなけいず)など耽美、浪漫、怪異を特色とした小説で作家の地位を築きます。

 鏡花の妻すずは、もとは神楽坂の芸妓桃太郎でした。彼女との仲を師の紅葉がゆるさず、それがそっくり『婦系図』の材料になります。二人は紅葉没後に結婚します。

 すずは夫を呼ぶときに、「あなた」などとは決して呼ばず、かならず「兄さん」と呼んだ。それを知る人たちは、『婦系図』の主人公早瀬とお蔦を連想したそうです。

 鏡花を師と慕った里見弴が、鏡花の女性に対する態度を書いた文章がありますので、これを紹介しましょう。

   《女―うっかりそんな呼び方をしようものなら、いやな顔をされる。勿論「御婦人」
    でなければいけないのだが―その一事でもわかるとほり、寧ろ崇めていらしった、と云った
    方がよからう。
    これはお作の二つ三つも読めば、誰にもすぐ納得がいく筈、無論女は大お好きだが、
    世に謂ふ「女好き」「助平」などとは、似ても似つかない好きさだ……》


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 里見弴(1888~1983)は94歳の長寿で、久保田万太郎らと文壇の大御所になった作家。文化勲章の受章者でもあります。

 有島武郎、生馬の弟であり、兄たちとともに武者小路実篤志賀直哉たちと雑誌「白樺」を創刊し、
日本文壇史に残る「白樺派」をつくった。

 里見弴は鎌倉に住み、いわゆる鎌倉文士のはしりとなった。戦後は松竹の大船撮影所に出入りして、
小津安二郎と親交を結ぶ。

 小津のために書き下ろした作品が映画『彼岸花』です。

 文壇の大御所であり、文化勲章受章の作家でありながら、里見弴について、一冊の評伝も研究書もないらしい。

 どうしたことか。

 里見弴の読者は寥々たるものです。いまでは、彼の本を探そうにも、図書館以外ではみつからない。

 一説では、彼の作品には、妻子があっても花柳界で遊蕩する主人公を登場させ、それを是認する作家の姿勢が、戦後は時代錯誤、非道徳的と批判されたようでする。

 鏡花に学んだ文章、技法にはすぐれたものがありながら、評価においては不遇です。


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 わくわく亭は、硯友社尾崎紅葉泉鏡花の作は代表作といわれるものは、好きでよく読んだものです。

 鏡花の文章よりも、紅葉の文章のほうが、読みやすい。

 しかし、今日紅葉は古くさいとして読まれず、鏡花は芸術品として、もてはやされています。

 (三島由紀夫あたりが誉めそやしたからですよ)

 里見弴は、わくわく亭も読んでいません。
 ただ一作、山本五十六が戦場に出立するまえに、自分のお妾(めかけ)さんのもとで一夜を過ごすという短編小説を読んだことがありました。

 どこかから出ていた名作集の中で読んだものだった。

 さほど、感心もしなかったと思うが、どうだろうか。