『百日紅』(8)善次郎
杉浦日向子さんの『百日紅』の魅力は、なんといっても北斎家の居候絵師善次郎というキャラクターです。
全30話の狂言回しを演じている「ぜんちゃん」こと池田善次郎のキャラクターをつくりだしたのが、『百日紅』成功の秘訣です。
善次郎は若き日の渓斎英泉のことなのです。実際の英泉が、この「ぜんちゃん」のようだったか、どうかの穿鑿は、ここでは無用のことです。
ここでは杉浦日向子さんがエッセイ『うつくしく、やさしく、おろかなり』で書いた愛すべき江戸人のひとつの典型として、「うつくしく、やさしく、おろかなり」そのものの「ぜんちゃん」が存在しているので、彼をわれわれ読者は、ただ愛すればいいのです。
善次郎はノーテンキであり、極楽とんぼです。
根無し草のように、江戸市中をほっつき歩き、女たちに可愛がられて、からかわれながら、誰からも憎まれるということがない。
紺の股引に、女物の梅模様の単衣物を夏冬かまわず着ている、着たきりスズメ。髪はいつもぼさぼさで、日をきめて結い直しているとは、とうてい思えないズボラさである。
ただし、本業とする絵師としての勉強は、北斎やお栄にボロクソにこき下ろされながらも、それなりにやっている。
現代にも、いくらでもいそうなキャラクターに思えるが、善次郎は決して「落ち込んだり」「将来を悲観したり」「恋や女で悩んだり」ということから、およそ無縁なのだ。
極楽とんぼ、とはそういうものでなきゃならない。
今日を、いや今を、気分良く生きられたら、ほかに何が不足なものか。
江戸の空が、いつも晴れているとは限らないが、雨や雪の日は屋根さえあればいいし、たとえ自分の女の子でなくったって、気のいい江戸の女が近くにいれば、淋しくもない。
懐にゼニがなくったって、だれかのところへ居候をさせてもらって、今日一日が生きられたら、なんの不安もありゃあしない…。
現代の若者にキャラクターは似ていても、生きる世界が違っている。
そこが江戸なら「ぜんちゃん」のように生きられた。
杉浦日向子の『百日紅』のもっている自由さは、「ぜんちゃん」の極楽とんぼの自由さなのだ。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
上に参照した杉浦さんの最後の本『うつくしく、やさしく、おろかなり』から、彼女が善次郎のような
キャラクターをなぜ好きだったのか、どれか一つの文章を拾ってみれば、よくわかります。
《柳、やなぎで世を面白う うけて暮らすが命の薬
梅にしたがひ、桜になびく 其日、そのひの風次第
虚言(うそ)も実(まこと)も義理もなし
これは、江戸後期に流行った端唄の一節で、ひそかに私の愛する文句です。
なんと、戯作的気分に溢れている事でしょう。
(略)
心中をも辞さぬ程、手放しの野暮天に入れ込んでいる江戸戯作の良さを、人に伝えるのは、
もどかしくも難しい。住所不定無職の恋人を、身内に紹介しなければならないハメのようです》
この文章のうち、「江戸戯作」を「善次郎」に置き換えて読んでもいいでしょう。
また、善次郎は女は好きでも恋をしない。恋とは「死ぬの、生きるのと」本気になりすぎる、思い 詰めるやつ。
お栄ちゃんも片思いはしても、それを表には出さない。つまり、身を焦がすような「恋」はしない。
それを「恋」は上方のもので、江戸は「色」である。「色」は軽くて、身を焦がしたりしない。抑制がきいて、「寸止め」である、と日向子さんはいう。
《惚れているのに、惚れていると言わずに、惚れた状態でいる》
そうした情感が江戸前の「粋」(いき)を生んだ、と杉浦さんはつづける。
お栄ちゃんも、「ぜんちゃん}も江戸前の粋な風の中で生きている。
『百日紅』には、全編に、そんな「風」が吹いています。
善次郎の渓斎英泉としての実像については、「驚異の美術館」の「渓斎英泉」を
ご覧下さい。
『百日紅』(9)へつづく
全30話の狂言回しを演じている「ぜんちゃん」こと池田善次郎のキャラクターをつくりだしたのが、『百日紅』成功の秘訣です。
善次郎は若き日の渓斎英泉のことなのです。実際の英泉が、この「ぜんちゃん」のようだったか、どうかの穿鑿は、ここでは無用のことです。
ここでは杉浦日向子さんがエッセイ『うつくしく、やさしく、おろかなり』で書いた愛すべき江戸人のひとつの典型として、「うつくしく、やさしく、おろかなり」そのものの「ぜんちゃん」が存在しているので、彼をわれわれ読者は、ただ愛すればいいのです。
善次郎はノーテンキであり、極楽とんぼです。
根無し草のように、江戸市中をほっつき歩き、女たちに可愛がられて、からかわれながら、誰からも憎まれるということがない。
紺の股引に、女物の梅模様の単衣物を夏冬かまわず着ている、着たきりスズメ。髪はいつもぼさぼさで、日をきめて結い直しているとは、とうてい思えないズボラさである。
ただし、本業とする絵師としての勉強は、北斎やお栄にボロクソにこき下ろされながらも、それなりにやっている。
現代にも、いくらでもいそうなキャラクターに思えるが、善次郎は決して「落ち込んだり」「将来を悲観したり」「恋や女で悩んだり」ということから、およそ無縁なのだ。
極楽とんぼ、とはそういうものでなきゃならない。
今日を、いや今を、気分良く生きられたら、ほかに何が不足なものか。
江戸の空が、いつも晴れているとは限らないが、雨や雪の日は屋根さえあればいいし、たとえ自分の女の子でなくったって、気のいい江戸の女が近くにいれば、淋しくもない。
懐にゼニがなくったって、だれかのところへ居候をさせてもらって、今日一日が生きられたら、なんの不安もありゃあしない…。
現代の若者にキャラクターは似ていても、生きる世界が違っている。
そこが江戸なら「ぜんちゃん」のように生きられた。
杉浦日向子の『百日紅』のもっている自由さは、「ぜんちゃん」の極楽とんぼの自由さなのだ。
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上に参照した杉浦さんの最後の本『うつくしく、やさしく、おろかなり』から、彼女が善次郎のような
キャラクターをなぜ好きだったのか、どれか一つの文章を拾ってみれば、よくわかります。
《柳、やなぎで世を面白う うけて暮らすが命の薬
梅にしたがひ、桜になびく 其日、そのひの風次第
虚言(うそ)も実(まこと)も義理もなし
これは、江戸後期に流行った端唄の一節で、ひそかに私の愛する文句です。
なんと、戯作的気分に溢れている事でしょう。
(略)
心中をも辞さぬ程、手放しの野暮天に入れ込んでいる江戸戯作の良さを、人に伝えるのは、
もどかしくも難しい。住所不定無職の恋人を、身内に紹介しなければならないハメのようです》
この文章のうち、「江戸戯作」を「善次郎」に置き換えて読んでもいいでしょう。
また、善次郎は女は好きでも恋をしない。恋とは「死ぬの、生きるのと」本気になりすぎる、思い 詰めるやつ。
お栄ちゃんも片思いはしても、それを表には出さない。つまり、身を焦がすような「恋」はしない。
それを「恋」は上方のもので、江戸は「色」である。「色」は軽くて、身を焦がしたりしない。抑制がきいて、「寸止め」である、と日向子さんはいう。
《惚れているのに、惚れていると言わずに、惚れた状態でいる》
そうした情感が江戸前の「粋」(いき)を生んだ、と杉浦さんはつづける。
お栄ちゃんも、「ぜんちゃん}も江戸前の粋な風の中で生きている。
『百日紅』には、全編に、そんな「風」が吹いています。
善次郎の渓斎英泉としての実像については、「驚異の美術館」の「渓斎英泉」を
ご覧下さい。
『百日紅』(9)へつづく