『百日紅』(5)北斎とお栄の家
どんどん寄り道をしてしまいました。
ここで初めにもどって、亀沢町とおもわれる北斎父娘の借家の光景にもどります。
1枚目が「番町の生首」から。文化11年、北斎が55歳、お栄が23歳です。
2枚目のイラストは飯島虚心の『北斎伝』からUPしたものです。こたつを背にして、布団を肩に掛け、筆をとって絵を画いているのが北斎です。
場所はやはり亀沢町ですが、家は別のもの、しかし、光景はかわりませんね。
北斎晩年の80代ころです。すると、お栄ちゃんは、すでに50代という計算になりますね。
当然杉浦さんの絵は、この『北斎伝』のイラストを参照して画いたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
このスケッチをしたものは誰で、何者か?
空想で画かれたものじゃなくて、手前の板塀のこちらに筆者はいて、スケッチしています。
スケッチしたものは露木孔彰さんといって、幕末、明治期の浮世絵師です。晩年の北斎のお弟子で、
為一(いいつ)の画号があった人。
(ちなみに、北斎の本名が「為一」(ためかず)だったから、それをもらったのでしょう。)
つまり、北斎とお栄を実際に見てスケッチできた人なのです。
『葛飾北斎伝』を書くために飯島虚心が露木さんをさがしたとき、まだ存命していて、インタビュー
ができたのです。そして、このスケッチ画を、露木さんから貰ったというわけ。
虚心さんだって、天保時代の生まれで、江戸と明治を半分半分生きた人なのです。
北斎がどんな生活をしていたかを知る、貴重な第一級資料です。いまでは国立国会図書館に収蔵されているそうです。
すこし、このスケッチに画かれたものを見てみましょう。
〇右に布団をかぶって絵筆をとっているのは北斎ですが、お尻はコタツにあたったまま。
なんという横着な姿勢でしょうか。
大変な寒がりで、9月下旬から4月上旬まで、たどんをつかった炬燵から離れなかった。
来客があろうと、相手が身分が高かろうと、金持ちであろうと、人気歌舞伎役者であろうと、
このまんま、応対したそうです。
〇左にいて横座りしているのがお栄さん。
寒いのでしょう、何枚も着込んでいるようすだし、一番上のは綿入れ羽織らしい。
箱火鉢に寄っかかっている。
火鉢の左に見え隠れしているのは、炭俵、みやげに貰った桜餅の籠、鮓の竹の皮です。
「とりちらし、物置と掃きだめと、一緒なるがごとし」と説明があるから、スケッチするとき、
さすがに師匠に遠慮してか、部屋中のちらかったゴミは画かなかったのだろう。
〇お栄の左後方に四角い箱が柱にとりつけてある。
蜜柑箱だそうで、柱に釘づけにしてあり、中に日蓮さんの像が安置されている。
晩年北斎は日蓮宗に帰依していたそうです。
それにしても、浮世絵師の中で、だんとつの高い画料をとった北斎が、仏壇代わりの蜜柑箱とはね。
とにかく、徹底して、身辺をかまわない父と娘だったのだ。
物欲が、こんなに少ない、絵を画くこと以外にどんな物欲も所有欲もないという、こんな
父娘の浮世絵師って、前代未聞。
赤貧洗うがごとし、どころか、清貧洗うがごとし。
越後の良寛さんの五合庵でも、もうすこし物はあっただろう。
〇良寛さんでも飯茶碗はお持ちだったろう。
北斎とお栄は、飯茶碗ももっていなかった!!!
本所石原町に住んでいたころ、となりが煮売り屋だった。
三食はみな隣の店からはこばせていたから、家には茶碗がない。
土瓶がひとつと、湯飲みが2,3個(どうせ隣店のもの)あるだけ。
来客があると、隣の小僧を呼んで、「土瓶にお茶をいれてこい」と注文して、
それを客に出したとある。
〇絵師であるのに、この家には机というものがない。
壮年のころから、机はもたず、ご飯をいれた飯櫃(めしびつ)のうえで、板下(はんした)を
画いたという。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
下戸で酒を飲まず、嫌いで煙草も吸わず、(お栄ちゃんは、お酒は呑んだし、煙草は好きだった)50からは女をそばに寄せず、博奕はやらないしと、いわゆる、のむ・うつ・かう、の三道楽がなかった 北斎がどうして、こんなに赤貧の暮らしを していたか、その大疑問の推理、解明はあとにゆずるとして、
ここで、
わくわく亭の大発見を発表します。
上の3枚目の絵を見てください。片岡球子(たまこ、とよみます。文字は野球の「球」の字です。
真珠の「珠}の字ではありません)の『面構 北斎の娘おゑい』です。
この絵のことは、わくわく亭の書庫「驚異の美術館」でくわしく解説しています。
大発見とはなにか???
“片岡画伯もまた『面構』のお栄を画いたとき、この露木さんのスケッチ画をもとにしている”
どうです、大発見でしょう。文化勲章受章者である日本画家の片岡球子さんの評伝、作品論はいくつも書かれているでしょうが、このお栄図のルーツについて解説したのは、世界で(この際大げさにやらせていただこう)このわくわく亭が最初ではありますまいか!!!
まるで『ダヴィンチ・コード』における「最後の晩餐」図の秘密発見のような、わくわく亭のはしゃぎようであります。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
片岡さんのお栄について書いているとき、さいごまで気になった点がありました。
両手でなにか棒のように長いものを突き立てているのです。ステッキのようにです。これは何だろう、と考えてみたものの、結局なにか思いつかず、考えるのを諦めました。
露木さんの描いたお栄も(この写真では見えにくいでしょうが)両手で同じように長いものを床(あるいは畳)の上に突き立てているのです。
両者を見比べても、身体は着物の裾の広がりかたで、同じ横座りだとわかりますし、左向きです。髪形もそっくりです。着物の襟のあたりはよく似ています。
そして両手の位置は、まったくおなじです。
露木さんのお栄は、なにを突いているのだろうか。絵筆か?まさか絵師が絵筆を粗末にするはずがないし、筆先の毛が見えない。
お栄は煙草好きなので、長い煙管(きせる)だろうか。先端がL字に曲がっているようで、煙管の雁首のようでもある。しかし、煙管だとしたら、吉原の花魁(おいらん)でも使いそうな「ながーい」煙管ということになるぞ。
箱火鉢によっかかっているし、火鉢のそばには炭俵があることからかんがえてみて、火箸(ひばし)ということも考えられる。しかし、火箸なら二本描くべきで、これは一本の棒状のものだ。
つらつら推理をしてみた結果、わくわく亭は「長煙管」説をとります。
片岡さんの「おゑい」が突いているものは「長煙管」には見えません。もっと太さがあります。
しかし、片岡さんの『面構』のお栄は、その心意気を象徴的に描いたものですから、彼女が突き立てているものが、なにか彼女を支えた「力強い」ものの象徴であればいいのです。
どちらにしろ、片岡さんの『面構』シリーズの「おゑい」は、露木孔彰さんが亀沢町で描いたお栄ちゃんのスケッチがそのルーツだったことに変わりはありません。
わくわく亭の大発見は、今後の片岡球子研究にとって、見過ごすことの出来ない、大手柄となるでありましょう。
パチパチパチ…拍手鳴りやまず。
『百日紅』(6)へつづく
ここで初めにもどって、亀沢町とおもわれる北斎父娘の借家の光景にもどります。
1枚目が「番町の生首」から。文化11年、北斎が55歳、お栄が23歳です。
2枚目のイラストは飯島虚心の『北斎伝』からUPしたものです。こたつを背にして、布団を肩に掛け、筆をとって絵を画いているのが北斎です。
場所はやはり亀沢町ですが、家は別のもの、しかし、光景はかわりませんね。
北斎晩年の80代ころです。すると、お栄ちゃんは、すでに50代という計算になりますね。
当然杉浦さんの絵は、この『北斎伝』のイラストを参照して画いたのです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
このスケッチをしたものは誰で、何者か?
空想で画かれたものじゃなくて、手前の板塀のこちらに筆者はいて、スケッチしています。
スケッチしたものは露木孔彰さんといって、幕末、明治期の浮世絵師です。晩年の北斎のお弟子で、
為一(いいつ)の画号があった人。
(ちなみに、北斎の本名が「為一」(ためかず)だったから、それをもらったのでしょう。)
つまり、北斎とお栄を実際に見てスケッチできた人なのです。
『葛飾北斎伝』を書くために飯島虚心が露木さんをさがしたとき、まだ存命していて、インタビュー
ができたのです。そして、このスケッチ画を、露木さんから貰ったというわけ。
虚心さんだって、天保時代の生まれで、江戸と明治を半分半分生きた人なのです。
北斎がどんな生活をしていたかを知る、貴重な第一級資料です。いまでは国立国会図書館に収蔵されているそうです。
すこし、このスケッチに画かれたものを見てみましょう。
〇右に布団をかぶって絵筆をとっているのは北斎ですが、お尻はコタツにあたったまま。
なんという横着な姿勢でしょうか。
大変な寒がりで、9月下旬から4月上旬まで、たどんをつかった炬燵から離れなかった。
来客があろうと、相手が身分が高かろうと、金持ちであろうと、人気歌舞伎役者であろうと、
このまんま、応対したそうです。
〇左にいて横座りしているのがお栄さん。
寒いのでしょう、何枚も着込んでいるようすだし、一番上のは綿入れ羽織らしい。
箱火鉢に寄っかかっている。
火鉢の左に見え隠れしているのは、炭俵、みやげに貰った桜餅の籠、鮓の竹の皮です。
「とりちらし、物置と掃きだめと、一緒なるがごとし」と説明があるから、スケッチするとき、
さすがに師匠に遠慮してか、部屋中のちらかったゴミは画かなかったのだろう。
〇お栄の左後方に四角い箱が柱にとりつけてある。
蜜柑箱だそうで、柱に釘づけにしてあり、中に日蓮さんの像が安置されている。
晩年北斎は日蓮宗に帰依していたそうです。
それにしても、浮世絵師の中で、だんとつの高い画料をとった北斎が、仏壇代わりの蜜柑箱とはね。
とにかく、徹底して、身辺をかまわない父と娘だったのだ。
物欲が、こんなに少ない、絵を画くこと以外にどんな物欲も所有欲もないという、こんな
父娘の浮世絵師って、前代未聞。
赤貧洗うがごとし、どころか、清貧洗うがごとし。
越後の良寛さんの五合庵でも、もうすこし物はあっただろう。
〇良寛さんでも飯茶碗はお持ちだったろう。
北斎とお栄は、飯茶碗ももっていなかった!!!
本所石原町に住んでいたころ、となりが煮売り屋だった。
三食はみな隣の店からはこばせていたから、家には茶碗がない。
土瓶がひとつと、湯飲みが2,3個(どうせ隣店のもの)あるだけ。
来客があると、隣の小僧を呼んで、「土瓶にお茶をいれてこい」と注文して、
それを客に出したとある。
〇絵師であるのに、この家には机というものがない。
壮年のころから、机はもたず、ご飯をいれた飯櫃(めしびつ)のうえで、板下(はんした)を
画いたという。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
下戸で酒を飲まず、嫌いで煙草も吸わず、(お栄ちゃんは、お酒は呑んだし、煙草は好きだった)50からは女をそばに寄せず、博奕はやらないしと、いわゆる、のむ・うつ・かう、の三道楽がなかった 北斎がどうして、こんなに赤貧の暮らしを していたか、その大疑問の推理、解明はあとにゆずるとして、
ここで、
わくわく亭の大発見を発表します。
上の3枚目の絵を見てください。片岡球子(たまこ、とよみます。文字は野球の「球」の字です。
真珠の「珠}の字ではありません)の『面構 北斎の娘おゑい』です。
この絵のことは、わくわく亭の書庫「驚異の美術館」でくわしく解説しています。
大発見とはなにか???
“片岡画伯もまた『面構』のお栄を画いたとき、この露木さんのスケッチ画をもとにしている”
どうです、大発見でしょう。文化勲章受章者である日本画家の片岡球子さんの評伝、作品論はいくつも書かれているでしょうが、このお栄図のルーツについて解説したのは、世界で(この際大げさにやらせていただこう)このわくわく亭が最初ではありますまいか!!!
まるで『ダヴィンチ・コード』における「最後の晩餐」図の秘密発見のような、わくわく亭のはしゃぎようであります。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
片岡さんのお栄について書いているとき、さいごまで気になった点がありました。
両手でなにか棒のように長いものを突き立てているのです。ステッキのようにです。これは何だろう、と考えてみたものの、結局なにか思いつかず、考えるのを諦めました。
露木さんの描いたお栄も(この写真では見えにくいでしょうが)両手で同じように長いものを床(あるいは畳)の上に突き立てているのです。
両者を見比べても、身体は着物の裾の広がりかたで、同じ横座りだとわかりますし、左向きです。髪形もそっくりです。着物の襟のあたりはよく似ています。
そして両手の位置は、まったくおなじです。
露木さんのお栄は、なにを突いているのだろうか。絵筆か?まさか絵師が絵筆を粗末にするはずがないし、筆先の毛が見えない。
お栄は煙草好きなので、長い煙管(きせる)だろうか。先端がL字に曲がっているようで、煙管の雁首のようでもある。しかし、煙管だとしたら、吉原の花魁(おいらん)でも使いそうな「ながーい」煙管ということになるぞ。
箱火鉢によっかかっているし、火鉢のそばには炭俵があることからかんがえてみて、火箸(ひばし)ということも考えられる。しかし、火箸なら二本描くべきで、これは一本の棒状のものだ。
つらつら推理をしてみた結果、わくわく亭は「長煙管」説をとります。
片岡さんの「おゑい」が突いているものは「長煙管」には見えません。もっと太さがあります。
しかし、片岡さんの『面構』のお栄は、その心意気を象徴的に描いたものですから、彼女が突き立てているものが、なにか彼女を支えた「力強い」ものの象徴であればいいのです。
どちらにしろ、片岡さんの『面構』シリーズの「おゑい」は、露木孔彰さんが亀沢町で描いたお栄ちゃんのスケッチがそのルーツだったことに変わりはありません。
わくわく亭の大発見は、今後の片岡球子研究にとって、見過ごすことの出来ない、大手柄となるでありましょう。
パチパチパチ…拍手鳴りやまず。
『百日紅』(6)へつづく