新内

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 本ではないのだが、いまどき、珍品かなと、持ち出しました。

 新内のLP 2枚。

 一枚は『新内 蘭蝶・明烏』日本コロンビア 1965年9月制作。

        蘭蝶  唄と三味線  新内勝恵

        明烏  唄      鶴賀徳之助
            三味線    新内勝恵


 一枚は『蘭蝶―若木仇名草』日本コロンビア 1968年3月制作。

        蘭蝶  唄      岡本文弥
            三味線    岡本宮染 



               ☆     ☆     ☆



 わくわく亭が新内のレコードを買ってきたのは、30歳代の後半で、永井荷風の「断腸亭日乗」をバイブルとしていた頃のこと。

 荷風は自分でも江戸俗曲を習っていたし、三味線も弾いていた。愛人はたいてい芸者だったから、身辺にはいつも三味線の爪弾きと、新内や端唄は聞こえていた。

 荷風から江戸文芸にそぞろ歩いて行くうちに、常磐津、河東節、新内節、薗八節、清元を耳にするようになる。

 もちろん歌舞伎の舞台音楽は浄瑠璃、というより浄瑠璃と人形操りが、歌舞伎をつくったようなものだから、浄瑠璃から進歩発展した豊後節常磐津以下の曲は、新内を別にすれば、すべて歌舞伎とは切り離せない。

 江戸の戯作を読めば、そうした音曲がどのようなものか聞いてみたくなる。

 大田南畝の随筆や日記を読めば、江戸中期全盛だった河東節を聞く場面がたびたびでてくる。いやでも聞いてみないでは気がすまない。(それで、河東節「助六所縁江戸桜」のLPを買った)

 そうして、いろいろ聞きかじって見た結果、一番好ましいものが、新内節となったわけである。




 永井荷風の小説で最高傑作についてアンケートをとると、「濹東綺譚」と「雨瀟々」が1,2位を争う。
 後者はきわめて随筆的な文体の小説で、荷風のコア的ファンは、やや通俗的な「濹東綺譚」より、こちらをとる傾向がある。

 主人公の友人が若い芸者を妾にしている。友人は実業家で、趣味というか夢は、若い芸者に、江戸中期に流行り、いまは廃れた薗八節を習わせて、ゆくゆくは薗八節を復興させるということだった。しかし
芸者は男をつくって逃げてしまい、友人の夢が実現しない、というストーリーである。
 それを読んだときにも、物語と荷風の厭世的な色調と、感傷的な文章のなかにあった薗八節が強く印象にのこった。
 

 そんな、こんなで、豊後節を源流としてうまれていった新曲に、僕は興味をもったというわけだった。


 荷風の名前を出したのだから、ついでに山本周五郎の「虚空遍歴」の名前も出しておこう。
 江戸の端唄名人とうたわれた中藤沖也が、本物の浄瑠璃を創作したいと、芸術的な苦悶をつづけながらさすらうという物語。

 中藤沖也の名前は、詩人の中原中也からとったもの。山本周五郎は中原の不遇の一生に深く同情していたそうで、詩人のイメージを「虚空遍歴」に取り入れたともいわれる。

 中藤沖也は師匠の常磐津文字太夫からはなれて、新曲をつくろうとするのであるが、沖也のモデルは豊後節から離れ、舞台を捨てて遊里に飛び込んで新内節を生み出した鶴賀若狭掾(つるがわかさのじょう)を連想させる。


               ☆     ☆     ☆



 と、まあ、わくわく亭の新内へとたどりつくまでの「虚空遍歴」を長々と語ったわけですが、(笑)

読んでいただいて、きっと退屈なさったでしょう。(ごめん)

 さて、

 新内といえば定番の2曲、それが「蘭蝶」と「明烏」。新内の最高傑作はこの2曲につきる。


 この2曲の語るストーリーを紹介するまえに、やっぱり新内誕生のいきさつを書いておいた方がいいだろう。


 上にもすでに触れたように、上方で浄瑠璃が操り人形の舞台音楽として生まれてより、豊後節がつくられて、男女の心中をさかんに語って大人気を博すのだが、世間では心中が多発した。豊後節が相対死を煽ったと、多発した心中事件の元凶とされて、上演禁止の処分をうけた。

 このときに、豊後節は分裂をする。歌舞伎の舞台音楽として生き残る道を選んだのが常磐津となり、
常磐津からさらに、河東、薗八、富本、清元が生まれていった。
 一方、豊後節分裂から、舞台を捨てて音曲だけで生きる道をえらんだのが新内節だった。

 新内は遊里をマーケットとしたのである。

 新内は鶴賀若狭掾が創始者であり、江戸安永期(1772~1781)が最盛期だといわれる。男女の心中道行きものを、泣き語りといわれる哀婉な曲節で唄うのである。

 江戸吉原で大流行した新内は、2人づれで連弾(つれびき)しながら唄い、それを新内流しと呼んだ。
新内は歌舞伎の舞台をすてて、吉原などの遊里の華となったのである。

 新内の真骨頂は心中道行きであり、「骨を噛むような切々たる哀切」と形容される哀調を特徴とする。
吉原の町から町をながして唄う新内の哀調をきくと、数千人といわれた遊女たちは、わがことが唄われているような哀切さを覚えて、涙せずにはおれなかったのであろう。

 
 
「蘭蝶」のものがたりは、こうである。

 声色師の蘭蝶は恋女房お宮がおりながら、遊女此糸と深い仲になる。お宮は亭主のためと身売りまでして尽くすのだが、その金も遊女に入れあげてしまう。お宮は此糸に会って、亭主と縁切りを頼むのだが、
その「縁でこそあれ末かけて~」とクドク憂いがかりの曲節が、ファンがもっとも喜ぶくだりとなっている。
 遊女此糸と蘭蝶はこのあと心中の道行きとなるのである。



明烏」もまた心中道行きものである。
 正式の曲名は「明烏夢泡雪」で「明烏」は通称である。
 吉原の遊女浦里と春日屋時次郎は浦里の楼主山名屋に仲をさかれてしまう。しのびこんで逢い引きした
ことが知れると、浦里は楼主の雪の中、庭木にしばりあげられて折檻をうける。
 ついに二人は心中を覚悟の逃避行。

 西に近松門左衛門人形浄瑠璃「曾根崎心中」があれば、東には新内節明烏」がある、と併称されるほどの流行をみた名曲である。

  ~とい弔いも御回向も逆縁ながら血のゆかり外の千僧供養より嬉しゅう二人が死出の旅
   さわさりながら我ゆへに其方も親に先立つ不幸因果な縁と諦めて~

 新内情緒が横溢する、道行きの場面。
 綿々たる哀調が聞くものの肺腑に沁みるようである。

 時代劇映画で、雪か空っ風の空模様の吉原で、男と女の新内語りが連弾きしながら流しゆくシーンが、よくあった。両人ともいわくありげに頭や顔を手拭いで隠すようにして、哀調たっぷりに「明烏」を
唄ってゆくのである。
 酔いつぶれた遊客を、となりに寝かせたまま、遊女は布団のなかで、新内節をきいている。
 彼女の両眼からはとめどもなく涙があふれだして……。