世にもまれな
(1)
北欧、ノルウエーだったかもしれない。雑誌で読んだのだったが、その人は、ピーナツを食べた人と街ですれ違っただけでショック症状がでるので、怖くて外出ができなかったそうだ。
その人は、自分の住居を改造し、一階を全面ガラス張りにして、外出をしなくても部屋から街や人や街路樹が見えるようにして、いまもひっそりと暮らしているらしい。
ショック症状とは、正式には「アナフィラキシー・ショック」とよばれるもので、特によく知られた原因食物がピーナツ、カシューナッツ、クルミなどのナッツ類である。
日本でも年間に5,60人がこのショック症状で命を落とすそうだが、食物アレルギーよりも薬剤や蜂に刺されたのが原因としては多いということだ。
ところが欧米では食物アレルギーによるアナフィラキシー・ショックが多く、なかでもピーナツ・アレルギーによる死亡例はアメリカだけでも年間100人にのぼるそうだ。
もともとアメリカでは乳幼児の1~2%がピーナツなどナッツ類のアレルギーをもっており、成長するにしたがって自然と症状が出なくなる児と、そうでない児があって、上記のように一生アレルギー・ショックを警戒しながら暮らす人がたくさんいる。
街ですれ違った人がピーナツを食べた人だったということで、ショック症状をおこすという北欧の例は、まれなケースだろうが、2005年にカナダで起きた死亡事故も、世にもまれなケースと呼ぶしかないだろう。
(2)
カナダ東部ケベック州に住んでいた15歳の少女が2005年11月、恋人の少年と映画を見て帰宅した直後から苦しみはじめ、緊急入院した数日後に死亡した。
名前をクリスティーナという、あいらしい少女はあきらかに全身性のショック症状をおこしていた。
嘔吐にはじまり、発疹で顔面は腫れあがり、気管がが膨張して呼吸困難におちいった。
ついに血圧が降下して意識不明となり、そのまま死亡したのである。
それら症状から、死因はアナフィラキシー・ショックとかんがえられた。
少女には幼いころから、ピーナツやナッツ類にたいするアレルギーがあったことから、どこかであやまってナッツ類を食べたことが原因とかんがえられ、警察では家族はもちろん、さいごに一緒だった少年から慎重に事情をきいた。
担当は女性係官で、場所は少年の自宅であり、両親を同席させての事情聴取だった。少年ボブも15歳だった。
「ボブ、よく思い出してみてね。クリスと映画館でなにか食べなかった」
「クリスは食物アレルギーがあったからさ、用心深くて、そとでは何も食べなかったよ。ポップコーンも
買っちゃあいない」
「映画の前はどうだった?」
「映画館の前で待ち合わせていたから、そのまま中に入ったのさ」
「じゃあ、映画館を出てから、レストランかコーヒーショップへ行ったのよね。そこではどうだった」
「レストランでも、食事はしなかった」
「何を注文した?思い出してみて」
「ミルクシェーキだよ。ミルクシェーキなら安全だと、クリスがいったから、ぼくも一緒にミルクシェーキを食べたよ」
ボブはミルクシェーキを食べているときのクリスのあいらしい唇を思い出したから、また涙があふれてきた。
たまらなくキスをそそられる、ふっくらとした唇だった。
唇どうしが触れあうと、あたたかくてやわらかで、うるおっていて、とってもいいきもちがした。
すぐに脳の中枢から快感物質が流れ出して、まるで大好きだったBEE・GEESのとろけるような、夢見心地の旋律に、さらわれていってしまうかのようだった。
クリスとのキスは、彼の15年の人生で経験した、どんなことにも比べようがない最高の心地よさだった。
ミルクシェーキは警察ですでに分析しており、結果はシロと出ていた。
「映画館でのこと、ほかになにかなかったか、思い出してみて。どんな小さなことでもいいから」
ボブには暗がりの中でも、うるんだクリスの唇が、スクリーンの光をうけて浮かび上がっており、ときどき、舌先が出て上唇をなめるのが見えた。じっとしてられなかった。
「映画館の中ではさ、たまらなくなって、なんどかクリスにキスしたよ」
あの唇がクリスとともにこの世から永遠にきえてしまっただなんて、なぜなんだ。
涙がふきだしてきた。
「キスね」
女性係官は、その言葉に事故原因解明の糸口をみつけた。
係官は少年がデートの日の、朝から食べた食品をくわしくしらべた。そして、少年が映画館でクリスにキスをする9時間まえの朝食に、ピーナツ・バターを塗ったトーストを食べていたことをつきとめたのである。
習慣通りキチンと朝食後に、ボブは歯磨きしていたから、彼の歯間のどこかに残っていたとしても、それはごくごく微量だったピーナツ・オイルが、少女の命を奪ったのである。
クリスが恋人の少年とかわしたキスは、世にもまれな悲劇のキスとなった。
女性係官の談話がある。
「少年は自分とのキスが少女の死因となったと知ったら、ながく自分の罪を責めて苦しんだりすることでしょうね。
トラウマとなって、女性とのキスができなくなるかもしれないわね。
でも、またきっといつか、クリスとのあの日のキスが、地上で最高の、彼にとっては永遠のキスだったということにも気づくはずよ。
そしてね、彼がおとなになれば、恋愛というもの自体、相手ばかりか自分まで、ほろぼすことも、まれではないということを、いやでも知ることになるのよね」
上記したように、アメリカではピーナツ・アレルギーで年間に100人が死亡するということである。
だが、そのうちに、はたしてキスが原因だったという事例がほかにあるだろうか。
北欧、ノルウエーだったかもしれない。雑誌で読んだのだったが、その人は、ピーナツを食べた人と街ですれ違っただけでショック症状がでるので、怖くて外出ができなかったそうだ。
その人は、自分の住居を改造し、一階を全面ガラス張りにして、外出をしなくても部屋から街や人や街路樹が見えるようにして、いまもひっそりと暮らしているらしい。
ショック症状とは、正式には「アナフィラキシー・ショック」とよばれるもので、特によく知られた原因食物がピーナツ、カシューナッツ、クルミなどのナッツ類である。
日本でも年間に5,60人がこのショック症状で命を落とすそうだが、食物アレルギーよりも薬剤や蜂に刺されたのが原因としては多いということだ。
ところが欧米では食物アレルギーによるアナフィラキシー・ショックが多く、なかでもピーナツ・アレルギーによる死亡例はアメリカだけでも年間100人にのぼるそうだ。
もともとアメリカでは乳幼児の1~2%がピーナツなどナッツ類のアレルギーをもっており、成長するにしたがって自然と症状が出なくなる児と、そうでない児があって、上記のように一生アレルギー・ショックを警戒しながら暮らす人がたくさんいる。
街ですれ違った人がピーナツを食べた人だったということで、ショック症状をおこすという北欧の例は、まれなケースだろうが、2005年にカナダで起きた死亡事故も、世にもまれなケースと呼ぶしかないだろう。
(2)
カナダ東部ケベック州に住んでいた15歳の少女が2005年11月、恋人の少年と映画を見て帰宅した直後から苦しみはじめ、緊急入院した数日後に死亡した。
名前をクリスティーナという、あいらしい少女はあきらかに全身性のショック症状をおこしていた。
嘔吐にはじまり、発疹で顔面は腫れあがり、気管がが膨張して呼吸困難におちいった。
ついに血圧が降下して意識不明となり、そのまま死亡したのである。
それら症状から、死因はアナフィラキシー・ショックとかんがえられた。
少女には幼いころから、ピーナツやナッツ類にたいするアレルギーがあったことから、どこかであやまってナッツ類を食べたことが原因とかんがえられ、警察では家族はもちろん、さいごに一緒だった少年から慎重に事情をきいた。
担当は女性係官で、場所は少年の自宅であり、両親を同席させての事情聴取だった。少年ボブも15歳だった。
「ボブ、よく思い出してみてね。クリスと映画館でなにか食べなかった」
「クリスは食物アレルギーがあったからさ、用心深くて、そとでは何も食べなかったよ。ポップコーンも
買っちゃあいない」
「映画の前はどうだった?」
「映画館の前で待ち合わせていたから、そのまま中に入ったのさ」
「じゃあ、映画館を出てから、レストランかコーヒーショップへ行ったのよね。そこではどうだった」
「レストランでも、食事はしなかった」
「何を注文した?思い出してみて」
「ミルクシェーキだよ。ミルクシェーキなら安全だと、クリスがいったから、ぼくも一緒にミルクシェーキを食べたよ」
ボブはミルクシェーキを食べているときのクリスのあいらしい唇を思い出したから、また涙があふれてきた。
たまらなくキスをそそられる、ふっくらとした唇だった。
唇どうしが触れあうと、あたたかくてやわらかで、うるおっていて、とってもいいきもちがした。
すぐに脳の中枢から快感物質が流れ出して、まるで大好きだったBEE・GEESのとろけるような、夢見心地の旋律に、さらわれていってしまうかのようだった。
クリスとのキスは、彼の15年の人生で経験した、どんなことにも比べようがない最高の心地よさだった。
ミルクシェーキは警察ですでに分析しており、結果はシロと出ていた。
「映画館でのこと、ほかになにかなかったか、思い出してみて。どんな小さなことでもいいから」
ボブには暗がりの中でも、うるんだクリスの唇が、スクリーンの光をうけて浮かび上がっており、ときどき、舌先が出て上唇をなめるのが見えた。じっとしてられなかった。
「映画館の中ではさ、たまらなくなって、なんどかクリスにキスしたよ」
あの唇がクリスとともにこの世から永遠にきえてしまっただなんて、なぜなんだ。
涙がふきだしてきた。
「キスね」
女性係官は、その言葉に事故原因解明の糸口をみつけた。
係官は少年がデートの日の、朝から食べた食品をくわしくしらべた。そして、少年が映画館でクリスにキスをする9時間まえの朝食に、ピーナツ・バターを塗ったトーストを食べていたことをつきとめたのである。
習慣通りキチンと朝食後に、ボブは歯磨きしていたから、彼の歯間のどこかに残っていたとしても、それはごくごく微量だったピーナツ・オイルが、少女の命を奪ったのである。
クリスが恋人の少年とかわしたキスは、世にもまれな悲劇のキスとなった。
女性係官の談話がある。
「少年は自分とのキスが少女の死因となったと知ったら、ながく自分の罪を責めて苦しんだりすることでしょうね。
トラウマとなって、女性とのキスができなくなるかもしれないわね。
でも、またきっといつか、クリスとのあの日のキスが、地上で最高の、彼にとっては永遠のキスだったということにも気づくはずよ。
そしてね、彼がおとなになれば、恋愛というもの自体、相手ばかりか自分まで、ほろぼすことも、まれではないということを、いやでも知ることになるのよね」
上記したように、アメリカではピーナツ・アレルギーで年間に100人が死亡するということである。
だが、そのうちに、はたしてキスが原因だったという事例がほかにあるだろうか。