尾道に立った「大塩味方」の幟

 

 先頃広島藩史を読んでいて、「慶応三年、尾道にええじゃないか騒動おこる」という一文を見つけたこ

とから、同年十二月の長州、芸州両藩兵の尾道派遣駐留のことを書いたところである。

 そのときに思い出したのが尾道市史の中にあった天保八年二月大坂で起きた大塩の乱の余波が、尾道

及んだという記述だった。

それはまことに短い記述で、大塩の乱から二ヶ月後の四月に、「大塩味方」を名乗って二百人あまりが

浄土寺境内に集まって騒動を起こす、といったもので、かれらが何者なのか、騒動はどんな結末をむかえ

たのか、詳しい内容は書かれていなかった。

 大塩の乱とは天保八(一八三七)年二月十九日、天保の大飢饉の最中、元与力で陽明学者として私塾を

開く大塩平八郎が「四海困窮いたし候ハハ天禄ながくたゝん」のはじまる有名な檄文を処方に送り、

腐敗した幕府役人とこれと結託して暴利をむさぼる豪商人達に天誅を加え、「救民」せよと、その旗印を

たてて起こした乱をいう。

幕府役人や豪商達の家々を襲撃し、大砲、火矢などを放ち大坂天満一帯を火の海にした。

乱はその日のうちに鎮圧されたものの、大塩父子が逃亡して三月二十七日隠れ家で火薬を使い爆死するま

で三十数日が経ち、その間に木版刷りされた右の檄文は、各地に伝えられることとなった。

また爆死したことで死体の人相確認が出来ず「大塩死せず」との噂も流れたのである。
 
事件直後には、大坂の川筋で騒動が発生、三月には西大坂一帯、兵庫、大和郡山紀州田辺などで打ち壊

しが続出する。

四月には備後三原で八百人が「大塩門弟」を旗印に一揆を起こした。

六月には越後柏崎で国学者の生田万が「大塩門弟」を名乗って代官所や豪商を襲うという

所謂「生田万の乱」が起きる。

さらに七月には大坂で山田屋大助ら二千人の農民が「大塩味方」「大塩残党」と名乗って一揆を起こし

た。

 尾道のとなりである三原で八百人という人数が「大塩門弟」と名乗って一揆を起こしたとの記録は、

大塩事件関係書の多くに見えている。尾道市史が記す二百人あまりが浄土寺に集まって「大塩味方」と名

乗って騒いだというのは、三原の騒ぎと時期も近いし、首謀者間に連絡や申し合わせがあったことも考え

られる。

 もっと資料はないかとウエブで検索してみると、つぎの記述が見つかった。

《瀬戸内では、網干に続き尾道の農民も「火をたき、ほら貝を吹き立て」て、岩国でも「大塩の乱の真似を

し」「打ち壊し予告の投げ文」も現われた。下旬にかけ、下関.三田尻.小郡.萩その他にも飛び火し、世

直し一揆へ発展……》

 尾道の農民が「火をたき、ほら貝を吹き立て」とあるのは尾道市史にある浄土寺境内の騒動のことだろ

うか。別の記事も探していたところ、尾道地元の山陽日日新聞の記事が見つかった。

 それは尾道の豪商栗田屋(金屋)の「年誌」の天保七年九月から九年三月までの内容を、市内の半田堅

二氏が現代文に訳したというもの。

それには天保七年の大飢饉で飢餓に苦しむ尾道町民に長江の艮神社で粥の施しがあり、その粥も「米一升

に水七升の割合で水をすするような粥だった」ことなどの記録が紹介され、ついで、

 《飢饉騒動は尾道でも起こり、尾崎の住人百三十人が徒党を組み千光寺山に登り、火を焚き、ほらがい

を吹き夜通し騒いだが町役人が出動して捕らえ鎮圧した。飢饉で疫病が流行し死者も出て行き場のない下

賤の者を浄土寺、常称寺で弔うと通達している。

 この年に起きたのが大坂で大塩平八郎の乱、越前柏崎での生田万の乱で栗田年誌では大塩平八郎の乱

ついて尾道にも波及するのではないかと心配し詳細な情報を入手している》

 ウエブから引用した「火をたき、ほら貝を吹き立て」の文は栗田屋年誌が出どころだったのではないか。

そうであれば、それは「大塩味方」を名乗って浄土寺で騒いだ一団のこととは別に、飢餓に苦しむ尾崎の住

民たちが千光寺で食い物をよこせと夜通し騒いだ折の記録だったことになる。

 千光寺で騒いだ百三十人は町役人らが出動して鎮圧したとある。

おそらく浄土寺で騒いだ二百人あまりの「大塩味方」の徒党も、たちまち町役人に説諭されたか鎮圧され

たのではないか。尾道市史の記録が短かったのは、記すべき内容がないほど、あっけなく騒動が終結した

のでは。

 どちらにしろ、それぞれが天保の大飢饉尾道町民が飢餓や困窮に苦しんだ様が伝えられている。それ

によって尾道町の経済的衰退に拍車がかかるまま、三十年後の明治維新を迎えるのである。

 ただ、あの大塩平八郎の檄文に呼応して「大塩味方」の幟を浄土寺に立てた勇敢な、名も無き男たちが

尾道にいたことは記憶にとどめておきたいと思い、この短文を書いた。