在りし昔の尾道(7)

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吉和漁港の正月風景です。

昭和30年に撮影されたもの。

「吉和漁港の周辺にはおびただしい数の小さな木造漁船が見られた。

それらは家船(えぶね)と呼ばれ、陸に定住地をもたないで船を住居として

生活をしている人々の船だった。

 せまい船の上で飯を炊き食事をし、母親は赤子に乳をふくませ、晴れた日には

洗濯をして板や帆布でつくった屋根に洗濯物を干した。

 夜間は夜具をかぶって、重なり合うようにして家族は眠る。

港に戻っても子供たちは女たちとともに魚を売り歩いて、学校にも通えない環境だった。

 そうした子供たちを陸上に住まわせて義務教育をうけさせようと、学校と寮とを兼ねた

施設がつくられて、最盛時には数百人のこどもたちをうけいれていたのが《尾道学寮》

だった」(小説『尾道物語・純情篇』から)


小さな漁船で対馬から山陰まで出漁する吉和の漁民も、盆、正月と祭礼には母港の吉和に

もどってきた。港を埋め尽くしている「家船」です。

家船の生活は,遠い過去の風習として民俗学の記録に残るばかりです。

家船海上生活の歴史を室町時代にまでさかのぼり、近代までの変遷を情感豊かに

書き綴った民俗学的な傑作エッセイがあります。

宮本常一の『海をひらいたひとびと』の中の「船の家」がそれです。

(ちくま日本文学・宮本常一 定価880円)


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吉和からタライに入れた魚貝を頭上にのせて、町の中を売って歩いた「かべり」。

「かべり」から転じて手押し車にのせて売り歩くようになります。