詩はどこへ行ったのか

詩人の谷川俊太郎さんへのインタビュー記事を読んだ。

この「わくわく亭雑記」を読んでくださっている方の中にも、何人か詩をかいている

人がおいでになるが、そうした方々にも関心のあるテーマだろう。

そう、「詩はどこへ行ったのか」



谷川さんは、まず「詩」には言葉で書かれた詩作品そのものと、言語化されていない詩情とがある、

と「詩」の意味を定義する。

詩情のもっとも直接的な言語化が現代詩である。

現代詩のほかに俳句や短歌があって、そうした歴史的な短詩形式は、結社をつくって

隆盛であるが、現代詩は読者を失うばかりである。

何故か。

現代詩は叙情より批評、具体より抽象、生活より思想をもとめて難解になり、読者を失った。


《現代詩は伝統詩歌を否定したところから始まっているが、詩は、人々を結ぶもので

 あるはずなのに、個性、自己表現を追求して、あたらしいことをやっているという

 自己満足が詩人を孤立させていった》


では、人々の身体の中にある詩情はどこへ行ったのか。

詩情は音楽の楽曲はもちろん、コミックス、テレビドラマ、コスプレのようなものにまで、

《非常に薄い状態で広がっていて、読者は、そういうものに触れることで詩的な欲求を

 満足させている》

井上雄彦のマンガ『スラムダンク』にも詩情はある。読者は1億冊の本を買っている。

これに比して、現代詩の詩集は300冊が売れればいいほうである。

人々の人間関係を、かつては詩情が言語化された表現として媒介していた時代があった。

それが今は、

《本当に薄く広く、あるいは、部分的限定的になっていて、掬おうにも掬えない。

 金銭に換算されないものの存在感は急激に減少しています》


つまり、いまは現代詩は書いてもお金にならない。

お金にならないが、貧乏してでもいい詩を書くぞ、みたいなことがみんなの前で言えなくなっている。

そうした状況では現代詩の存在感は弱くなり、人々はアニメに、ゲームにまでも薄く、広く拡散した

詩情らしきもので満足して、難解な現代詩を見向きもしなくなった。


それでも詩を書こうとする若者はどうすればいいのか。

食えなくても詩を書いて生きる、という道は現代ではむつかしい。

《経済的に自立する道を考えることを勧めます。今の詩人は、秩序の外に出て生きることが

 難しい》


なにか生活する道をもちながら、金銭とかかわらないで詩を書くしかない。

《金銭に絶対換算されないぞ、ってことを強みにしないとダメだ、みたいに開き直ってみたくなる》


 詩人たちにとって、まことに生きにくい時代である。