川喜多夫妻と甘粕正彦

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若い川喜多長政・かしこ夫妻




因縁、奇縁という言葉があるが、歴史を振り返ってみるときに、人間たちのふしぎな邂逅、遭遇の場面と

いうものがある。


川喜多かしこと彼女の夫川喜多長政とが、若き原節子をともなって、日独合作映画『新しき土』の公開プ

ロモーションのため、1937年(昭和12年)3月10日、ドイツへむかって出立した。

東京ー大阪ー下関ー大連ーシベリア鉄道でベルリンへという旅程であった。

下関から大連までは汽船である。

その船上で川喜多夫妻は(そして、もちろんのこと原節子も)甘粕正彦と出会ったのである。

なんたる奇遇。そして歴史のふしぎを感じる彼らの遭遇だった。

日本人ならば、誰知らぬもののない、あの「主義者大杉栄伊藤野枝と大杉の甥の少年3人を、関東大震

災下に虐殺した」甘粕正彦と、満州行きの船上で知り合うことになったのだ。

川喜多長政甘粕正彦を相手に船上ゴルフに興じたらしい。

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満映理事長室の甘粕正彦




甘粕は当時「大東公司」という国策会社に関係しており、日本と満州を頻繁に往復していた。

「大東公司」というのは満州国で働く日本人、中国人、満州人、朝鮮人の国民的比率を調整しながら

労働者の統制をする機関で、労働者から徴収する通関料は莫大なものだった。

その遭遇の2年後(1939)に、甘粕は満映満州映画協会)の理事長に就任するのであるが、川喜多

長政もまた同年に上海に設立された映画会社中華電影の専務董事になる。

満映李香蘭というスターを擁した映画制作の国策会社で、満州鉄道と満州国が出資した。

中華電影は日本軍が上海に日本の傀儡政権として成立させた『中華民国維新政府』(1938年)と

満映とが出資した映画制作会社だった。

2つの映画会社はともに日本軍のつよい影響下にあったもので、占領地中国で大衆的な人気のある映画を

制作し、その配給網をにぎることで、満州、中国民衆の民意を収攬することを図ったのである。

ただし、中華電影を任された川喜多長政は、決して軍部の言いなりにはならなかった。

彼は中華電影のオフィスを日本軍の占領地でなく、英米共同租界のなかにつくってしまい、中国人プロデ

ューサーと役者らに制作をまかせてしまう。そのために戦時下の上海で、日本の国策会社が、中国人監

督・役者・スタッフによる映画製作を行うという奇妙な事態になったのであるが、それは川喜多長政とい

う人物の映画製作への熱情と民族的な良心を物語っている。

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大連行きの船上で、川喜多夫妻が甘粕正彦と邂逅するとは、後年の因縁を思うと不思議な巡り合わせと言

うべきだった。

キャビンで休んでいたかしこは甘粕について、

「相手は大杉事件の甘粕氏の由。気の短い人の由」と不安な心境を、手記に書き残している。



後年、川喜多長政が中華電影の代表に就任すると、大陸の国策映画会社の代表業界人として、酒席などを

ともにしたようだが、甘糟とは考え方も肌合いも全く違い、対立する間柄だったらしい。

ところで、満映の大スターとなった李香蘭であるが、日中戦争が激化する中で、中国人を装う事も重荷に

なってくる。

そこで満映との契約破棄を決意し、上海の川喜多に相談して、満州で甘糟に契約破棄を伝える。

意外にも甘糟はアッサリと了承した。以降李香蘭の活動拠点は上海になった。

敗戦後、李香蘭は日本人籍が証明されたため、漢奸裁判では無罪となるが、帰国船に乗ることができな

かったときも、川喜多は彼女に付き合い乗船せず、1ヶ月待って李香蘭をつれて、無事日本に帰国した。

自らの身の危険を省みず、李香蘭を守って帰国させたという男気のある美談も、川喜多長政らしい。


川喜多かしこばかりが有名になっているが、彼女の夫の長政が、また優れた器量人だったことを知って欲

しいのである。