「読者は踊る」

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斉藤美奈子さんの書評集『読者は踊る』は面白かった。

ちかごろ、これほどの刺激的で、才気煥発な書評を書ける、文芸評論家は彼女のほかにいないだろう。



文春文庫(¥676E)を紹介しようとして、書きかけにしておいたら、今朝の朝日新聞に彼女の

文芸時評が載っていた。

そうなんです、彼女、出世して(?)この春から「朝日」の文芸時評担当になったのです。

なんてったって「朝日」だぞ~、とさすがの斉藤美奈子あねごも、緊張しているみたいで、いつものキレが少々影をひめるというか、「女性の品格」を編集側に要求されているのか、おとなしい出だしです。

まあ、だんだんと、普段の斉藤節が発揮されることでしょう。

今朝の時評では、ちかごろの日本の作家たちは、チマチマした「小さな物語」しか書かなくなった中で、
日本の国家、経済という大きなテーマを扱った笙野頼子桐野夏生の最新作を論評して「大きな物語」もまだ死んでしまったのではない、とほっとしているようだ。

たしかに、うんざりするほど、「ニート男かメルヘン女を主人公とする一人称的な小説ばかりなのを目にすると、少しは外出して運動でもすればよさそうなもの」(武田将明)という感想への彼女の共感は、
わくわく亭も共感するところ。

ニート小説とメルヘン小説がチマタに溢れている。ちまちまとした内的世界かファンタジックな「すぐ泣ける」「2倍泣ける」がウリの少女・少年文芸しか売れないから、そればかり若い作家は書くんだろう。

なにしろ、そうした小説の競争相手は、ケータイ小説、コミックス、アニメ、ゲームといったサブカルチャー津波のような流行なのだから、たいへんなのだろう。アニメやゲームからの小説化も盛んになっていると聞くしね。

それにしても、日本文学のサブカル化と矮小化とには、嘆いてしまうよ。

読者は踊る」については、また書きかけになった。稿を改めます。


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読者は踊る」のどの章から読んでも面白いのだが、最初の章である「カラオケ化する文学」をちょっと紹介しよう。

 その1.は「消えゆく私小説の伝統はタレント本に継承されていた」というびっくりするような、卓説を披露する。
その例として、唐沢寿明の『ふたり』と石原慎太郎の『弟』をあげる。

タレントにちがいない唐沢の本がタレント本に分類されても文句はないが、慎太郎の『弟』がおなじジャンルに分類されたと知って、慎太郎知事は、「それは純文学だぞ、そんなことも知らないのか、このババア」と反論するだろうか。

 その2.「字さえ書ければ、なるほど人はだれでも作家になれる」の巻。
読売新聞の文藝季評(96年10月)からの引用がある。

「新人賞に応募してくる若き作家志望者たちは、あまりに安易で緊張のない風俗に流されているのではないか。ろくに文学も、文芸雑誌を読んだこともないのに、公募ガイドを見て応募してくる。
不思議なのは、文学を読んだこともないのに、どうして文学が書きたい、書けると思うのだろうか」

 この現象を、斉藤さんは「純文学のカラオケ化」と呼ぶ。
文学新人賞の応募者の数はだいたい1500人くらいいるそうだ。

「一発当てるにはマンガかミュージシャンの方が効率(成功して有名になり、お金にもなるための効率)
がよいが、そっちの才能はないので文章が選ばれる。(略)手間暇かけず、日本語が書けるだけでイケそうな分野って、身辺雑記的なエッセイか純文学くらいなんだよね」
ということで、新人賞にどっと応募が集まる。

「小説もなめられたもんだけれど、それは作家志望者の姿勢の問題と言うより、文学業界が自ら掘った穴に自分ではまっただけの話だろう」

音楽界が中学生、高校生のアイドル歌手を発掘してスターにして売上を伸ばした方法をまねて、
文学界が、それこそ文芸書を読んだこともない中学生、高校生の少女をアイドル作家として売り出す
風潮を、斉藤さんの毒舌が切りこんでいるのである。

さらに、アイドルだから、写真うつりも「かわいい」作家が推薦される風潮があるのだとか。


その3.「芥川賞は就職試験、選考委員会はカイシャの人事部」

その4.「夏休みの課題図書は「じじばば文学」」の巣窟だった」

その5.「身内の自慢話が「だれも悪くいわない本」に化ける条件」

内容は割愛するが、これらのタイトルだけで内容が面白そう。

現在の日本の「文学」が漂流している現状を的確にとらえて、あっそーか、と目からウロコの分析をしてくれる、ちかごろ一番の快著である。

朝日新聞文芸時評担当の席を射止めたからといって、このするどい分析力と舌鋒は維持してもらいたいものである。