薩摩藩士 vs 長州藩士


 1862年、薩摩藩主の父である島津久光の行列を横切ったことを理由に、馬に乗ったイギリス人4人が、供侍によって斬られ、一人が死亡、二人が負傷するという、いわゆる「生麦事件」が起きた。

 イギリスは薩摩藩に対して賠償金を要求、犯人処刑を迫ったが、薩摩藩はこれを拒否したため、1863年、イギリス東洋艦隊の鹿児島攻撃に発展する。

 そうしたあわただしく、切迫した外国との交渉に臨んだ薩摩藩の代表団の写真である。




 こちらは長州藩士である。
 1864年、攘夷を決行するため、長州藩は下関海峡を航行する外国艦船を砲撃したが、その報復として、英仏米蘭の4国連合艦隊が下関砲台を攻撃する、いわゆる「下関戦争」が起きた。

 わずか3日間で長州側の敗戦となり、長州は攘夷論から開国論へと転換をはかる。

 そのころ撮影された長州藩士の写真である。

 
 薩摩武士と長州武士。


 薩摩藩士は外國との交渉に出てきた者だけに、話し合いは出来そうな面々ではある。

 他方、長州藩士の二人には、なんともいえない迫力がある。下関戦争の後だけに、戦意がのこっているというか、とくに右側のサムライの眼には「殺気」すら感じられるではないか。

 二人のたずさえた刀は、飾り物の刀じゃなくて、いかにも手入れの行き届いた「ワザモノ」らしい。