江戸薩摩屋敷・篤姫

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 一枚目は、オランダ人ベアトが撮影した写真で、「江戸・高輪の薩摩屋敷」と説明があるだけです。

 幕末の歴史を動かした薩摩藩の江戸上屋敷であれば、「高輪」の東隣にあたる「三田」あるいは「芝」と言うべきなのですが。

 下にUPしました江戸の切絵図(文久元年制)では、右下の矢印が指し示すГ痢崗省申ね?臧廖廚箸△襪里芝の薩摩藩邸です。「松平」と徳川親藩の名を名乗っていますが、もちろん「島津」家です。
 これをベアトは「高輪の薩摩屋敷」といっているのかどうなのか。

 写真がこの藩邸であれば、幕府軍庄内藩の連合軍が焼き討ちをかけ、それが戊辰戦争の発端となった歴史的な現場の写真ということになる。

 地図の上方(西)に「島津淡路守」屋敷がありますが、島津家の支藩である日向佐土原2万7070石の江戸屋敷です。写真はそんな小藩の江戸屋敷ではないでしょう。これを撮ったとは思えません。

 地図のは田町にあった薩摩蔵屋敷です。西郷隆盛勝海舟が「江戸無血開城」の膝詰め談判をした場所ですが、ここを「高輪」といっているとは思えないし、海岸の米穀類を貯蔵するための蔵屋敷の光景ではない。

 ということで、わくわく亭としては、やはりГ砲△辰浸暗帖覆泙燭麓如砲了摩藩邸の貴重な写真であると結論したいのです。

 いかにも幕末の薩摩藩の存在感を感じさせる、スケールの大きな藩邸の入り口付近の写真です。

 もしも、どなたか、「高輪の薩摩屋敷」について別の情報をお持ちであれば、ご教示ください。

 二枚目は江戸切絵図から「芝三田高輪辺絵図」です。


 今年からNHK大河ドラマが『篤姫』を始めました。

 篤姫は島津家の分家の出で、従兄にあたる島津斉彬の養女になり、江戸藩邸(つまりは、上の写真)に入ります。のちに近衛家の養女となってから、13代将軍家定の正室になりました。

 島津家からは、11代将軍家斉の正室になった、のちの広大院を送り込んだ実績がありましたし、そもそも島津家代々の藩主は、徳川家から正室を迎えることで、縁戚関係をつくることで外様大名の不利をしのごうと、やっきになっていたものでした。いわゆる政略結婚です。

 島津家は将軍徳川家の「ご縁戚」となったことで、縁戚の証明である「松平」の姓を名乗ることが許されてたのでしょう。

 江戸切絵図に「松平」家として薩摩藩邸が画かれているのは、そうしたワケです。「修理大夫」は官職名です。