目覚めの歌・眠りの歌

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 歳末の買い物に、わくわく亭は女房につきあって池袋のデパートに行ってきました。
午前中は風呂場や庭の掃除をしたりしたものだから、2人で食事をして、
午後の7時に帰宅すると、かなりの「おつかれ」状態でした。

 コタツにごろりとなり、テレビのチャンネルをまわしていたら、NHKのBS2で
美空ひばり生誕70周年 珠玉の70曲」という番組をやっていた。

 この番組は6月に放送したものの再放送だったが、午後の4時から
(途中7時のニュースで30分間の中断があった)10時までの、
およそ5時間30分に及ぶ長時間放送だった。
 わくわく亭が見たのは、その後半の3時間ほどだった。

 美空ひばりの回顧番組は、いまも各局で制作されており、
彼女の人気はいささかも衰えない。

 ひばりのヒット曲、名曲の数々を聞きながら、わくわく亭は2つのことを
思い出していた。

 ひとつは、今月「めまい」で入院したときに、同室の入院患者のベッドから、
毎朝聞こえた「ひばり」のCD曲のこと。

 いまひとつは、仏教学者の山折哲雄さんがその著書の中で書いていたことで、
氏は旅に出るときはいつも「美空ひばり」の歌と二人三脚を組むほど好きだそうで、
「ひばり」の歌は氏にとって子守唄だった。その子守唄は、死を迎えるときにも、
はたして自分の子守唄になってくれるだろうか、と。


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 救急車で運ばれていったから、ナースステーションの正面にある6人部屋にはいった。
看護師がほぼ24時間注意をしてくれる病室だった。
(3日目の夜からは個室に移された)
 僕をいれて6人いた患者はすべて男性であり、その中の4人はベッドに寝たきりの
病状だった。4人とも脳梗塞の患者らしかった。あとの一人はリハビリのプログラム
をこなしていたから、回復過程にいたらしい。
 一人は重症ようで、ほぼ全身が麻痺状態にあり、口がきけなかった。
奥さんと息子さんが毎日交代で見舞いにきて、息子は、
 「お父さん、僕ですよ。眼をあけて頂戴。これお父さんの孫ですよ。
写真を見てやって」とケータイを
見せながら語りかけていた。しかし、眼を開けない様子だった。
 奥さんは、
 「○さん、わたしの声が聞こえているなら、眼をあけて、わたしを見てください。
おねがい、わたしを見てください」
 と悲痛な声で一時間以上も話しかけていた。

 その患者は60くらいの年齢に見えた。ほとんどの時間、大きないびきをかきながら
眠っているが、家族が見舞いにきている時は、いびきをかいていない。会話はできないが、
意識はあるのではないだろうか。
 男の看護師が、午後やってきて、麻痺状態の手足をマッサージしながら、
家族とおなじことを言っていた。
 「○○さん、眼を開けて、私を見てください」

 6人のうち、彼だけは食事をとっていなかった。鼻からの酸素吸入と栄養剤の点滴を
受けていた。体力保持のためだろうが、電動ベッドを半分起こして、
座るような姿勢にさせられた時間帯もあった。

 僕が点滴薬のスタンドを引きずりながら、トイレに行こうとしたとき、
座らされた彼が両眼を見開いているのを見たことがある。しかし、
眼は虚空をみつめているばかりで、なにも見てはいないかのようにウツロだった。

 朝の6時半になると、女性の看護師が、顔ふき用のおしぼりを配りながら
「おはよう」とやってきた。
患者の体温と血圧を測ってくれた。そのあと朝食が来る。

 そのとき、向かいの重症患者のベッドから「美空ひばりのヒット曲集」
が鳴り出すのだった。
看護師が、
 「○○さん、おはよう。起きてください。ひばりちゃんの歌ですよ」といって、
CDをかける。
小さな音量なのだが、早朝の病室のすみずみにまで聞こえる。

 きっと、家族が持ってきたCDで、毎朝かけてやってほしいと、たのんでいるに
違いない。患者本人が「ひばり」ファンなのだろう。
 わくわく亭が入院した日の夕方にも、そのCDは小さな音量で鳴っていた。
見舞いの家族がかけてやったものなのだろう。エンドレスに長く聞こえていた。

 僕は20曲ほどの全曲を耳を澄ませて聞いた。どれもよく知っている「ひばり」
の代表曲ばかりだ。

 最初の曲は、朝の目覚めにうってつけの歌だ。13歳の少女だった美空ひばり
明るく、はずむような名曲『東京キッド』だ。

   歌も楽しや  東京キッド
   いきでおしゃれで  ほがらかで
   右のポッケにゃ夢がある
   左のポッケにゃチュウインガム
   空を見たけりゃ ビルの屋根
   もぐりたくなりゃ マンホール

 患者は眼を閉じたまま、いびきをかいている。
 彼の奥さんが、「○さん、おねがい、眼をあけて、わたしを見て」と呼び続ける声
がよみがえってくる。
 ひばりの『東京キッド』は彼を目覚めさせることなく、早朝の病室に軽快に流れて
いくのだった。


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 山折哲雄さんの著書『お迎えのときー日本人の死生観』に「ひばり」の歌のこ
とは出てくる。

 ひばりの演歌が好きで、ひとりで国内外を旅するときには彼女の音楽テープをもって
いき、夜ホテルで湯につかり、酒を飲んで、ベッドに入るころになると、
ひばりの演歌を聴く。

 死の床に横になったときにも、モーツアルトのレクイエムでなく、
ショパンの葬送曲でもなく、ひばりの演歌のほうがなじめるだろうと思われるのだが、
最後の土壇場で、どういうことになるか、こころもとない、と「お迎えのとき」
の作法について沈思する。

 また別の雑誌の寄稿では、ひばりの『りんご追分』を聞きながら永眠したい、
といったことを書いていたようにも記憶する。

 
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 「美空ひばり生誕70周年 珠玉の70曲」をテレビで見ながら、ひばりの演歌は、
重症患者の「目覚めの歌」となれのか、山折哲雄さんの「お迎えのとき」
の子守唄になれるのか、とわくわく亭は、ふと考えていたのです。

 ひばりは公演での最後の曲は、いつも『人生一路』にしていた。
実弟のかとう哲也が作詞した歌だった。


   一度決めたら二度とは変えぬ 
   これが自分の生きる道
   泣くな迷うな苦しみ抜いて
   人は望みをはたすのさ


 NHK番組のラストソングもこの曲で締めくくった。
いかにも美空ひばりの一生を収斂するにふさわしい歌だった。
 しかし、
 名前を知らない同室だった患者さんには、この歌はなじめないだろう。
山折さんも、この歌では眠りにつけないだろう。もうはや、
「他力」に運命をゆだねるしかないものには、なじめない。

 やはり、「○さん、眼をあけて、わたしを見て。一回だけでいいから、
わたしを見て」と奥さんが呼びかける、あの患者さんには、『東京キッド』の明朗、
快活な曲が、奇跡を起こすかも知れない。
 ある朝、彼は瞼をひらいて、奥さんを見るかもしれない。

   歌も楽しや  東京キッド
   いきでおしゃれで  ほがらかで
   右のポッケにゃ夢がある……


 ひばりさんが臨終を迎えたとき、彼女の耳の奥には、どの曲が鳴っていただろうか。

 『人生一路』だったとは、思えないのだ。

 ひばりさんの深い眠りへの子守唄となったのも、この曲だったのではないだろうか。

   歌も楽しや  東京キッド
   いきでおしゃれで  ほがらかで……