壺中居
「壺中居」(こちゅうきょ)は日本橋3丁目であるから、正しくは京橋地区ではない。しかし、「京橋骨董通り」という場合、高島屋横のさくら通りに店を構える十数店を加えているようだから、僕もそれにならって、「壺中居」からはじめることにします。
なにしろ、この「壺中居」は骨董通りの目玉の店舗だから、これはどうでも外せないのです。
凋落ぎみの三越をおさえて、いまや単独売上日本一のデパートであり、その旗艦店である日本橋高島屋
が、道路を挟んで「壺中居」のお向かいさんです。道路の両サイドに桜並木があるから、名づけてさくら通り。
写真右角が「壺中居」、左の建物が高島屋です。
「壺中居」は全国の美術・骨董商の中で、まず筆頭クラスにあげられる老舗(しにせ)であり、かつ名門の美術商ということになるようです。
入り口をのぞくと、内部のやや照度をおさえた照明の中に、受付台があって、若い女性が座っている。入り口からすぐに展示品があるというお手軽な店ではないので、一見の客など、畏れ多くて、気安くドアを押して入れる雰囲気ではないのです。常連の、富裕な、美術品愛好家のみが入ることを許された重いドアなのです。
ドアの横にある展示マドには、赤絵の大鉢があります。小さな説明文を読んでみます。
【明来の大鉢/呉須赤絵/蓮池水离文】
中国明代の呉須焼きの赤絵で、蓮池の景色を描いた文様らしい。わくわく亭には値打ちのほどは、かいもく見当もつきません。しかし、眺めていると、僕の脳細胞がちょっぴり柔らかになった気分。
悪くない気分です。
「壺中居」の創業は大正13年。伯爵家の令嬢で随筆、工芸家となった白洲正子さんの叔父、広田松繁氏が創業した東洋美術の骨董商です。
当然のことに、日本の華族、貴族階級、富裕階層を相手の美術商として成功を収めていくのです。
「壺中居」は美術品収集家として名高い侯爵細川護立(もりたつ)氏(旧熊本藩主細川家16代)とは深い交渉があったようです。
白洲正子さんは護立氏から古美術の手ほどきを受けたと言うことですし、その孫にあたる元の首相細川護煕(もりひろ)さんとは美術工芸について深い親交を結んでいました。
首相の座を降りて、政界から引退した護煕さんは、いまでは陶芸家として名をなしています。
ことしの5月、細川護煕陶芸展が開催されました。もちろん、その会場となったのは、細川家とつよい
えにしがある、この「壺中居」でした。
ことのついでに、耳学問したばかりですが、店名となっている「壺中居」の由来を受け売りします。
中国後漢の時代のこと。
費長房という男が薬売りの老人に出遭いました。
老人は店をしまうと店頭にぶらさげてあった壺の中に、すうーと入っていくのでした。
この不思議な光景を見た男は、老人にたのみ込んで、自分も壺の中に入ってみました。
すると、そこは俗界を離れた、まさに仙境でした。
男はしばし俗世を忘れ、ともに酒を飲み、時をすごしてから、また壺の外に出てきた
ということです。
中国の『漢書』にある「壺中居」という話です。これからとって店名にしたのです。
美術品を愛好するということは、俗世を離れた仙境に遊ぶという心にも似る、と、その言うところのものはわかりますが、富裕者でなければ「壺中居」の門に入りがたいという現実があります。
こちらは呉須赤絵を眺めるだけで満足。
さて、わくわく亭の足は、一杯のカフェラテを飲むために、八重洲通りのスターバックスへと向かいます。
なにしろ、この「壺中居」は骨董通りの目玉の店舗だから、これはどうでも外せないのです。
凋落ぎみの三越をおさえて、いまや単独売上日本一のデパートであり、その旗艦店である日本橋高島屋
が、道路を挟んで「壺中居」のお向かいさんです。道路の両サイドに桜並木があるから、名づけてさくら通り。
写真右角が「壺中居」、左の建物が高島屋です。
「壺中居」は全国の美術・骨董商の中で、まず筆頭クラスにあげられる老舗(しにせ)であり、かつ名門の美術商ということになるようです。
入り口をのぞくと、内部のやや照度をおさえた照明の中に、受付台があって、若い女性が座っている。入り口からすぐに展示品があるというお手軽な店ではないので、一見の客など、畏れ多くて、気安くドアを押して入れる雰囲気ではないのです。常連の、富裕な、美術品愛好家のみが入ることを許された重いドアなのです。
ドアの横にある展示マドには、赤絵の大鉢があります。小さな説明文を読んでみます。
【明来の大鉢/呉須赤絵/蓮池水离文】
中国明代の呉須焼きの赤絵で、蓮池の景色を描いた文様らしい。わくわく亭には値打ちのほどは、かいもく見当もつきません。しかし、眺めていると、僕の脳細胞がちょっぴり柔らかになった気分。
悪くない気分です。
「壺中居」の創業は大正13年。伯爵家の令嬢で随筆、工芸家となった白洲正子さんの叔父、広田松繁氏が創業した東洋美術の骨董商です。
当然のことに、日本の華族、貴族階級、富裕階層を相手の美術商として成功を収めていくのです。
「壺中居」は美術品収集家として名高い侯爵細川護立(もりたつ)氏(旧熊本藩主細川家16代)とは深い交渉があったようです。
白洲正子さんは護立氏から古美術の手ほどきを受けたと言うことですし、その孫にあたる元の首相細川護煕(もりひろ)さんとは美術工芸について深い親交を結んでいました。
首相の座を降りて、政界から引退した護煕さんは、いまでは陶芸家として名をなしています。
ことしの5月、細川護煕陶芸展が開催されました。もちろん、その会場となったのは、細川家とつよい
えにしがある、この「壺中居」でした。
ことのついでに、耳学問したばかりですが、店名となっている「壺中居」の由来を受け売りします。
中国後漢の時代のこと。
費長房という男が薬売りの老人に出遭いました。
老人は店をしまうと店頭にぶらさげてあった壺の中に、すうーと入っていくのでした。
この不思議な光景を見た男は、老人にたのみ込んで、自分も壺の中に入ってみました。
すると、そこは俗界を離れた、まさに仙境でした。
男はしばし俗世を忘れ、ともに酒を飲み、時をすごしてから、また壺の外に出てきた
ということです。
中国の『漢書』にある「壺中居」という話です。これからとって店名にしたのです。
美術品を愛好するということは、俗世を離れた仙境に遊ぶという心にも似る、と、その言うところのものはわかりますが、富裕者でなければ「壺中居」の門に入りがたいという現実があります。
こちらは呉須赤絵を眺めるだけで満足。
さて、わくわく亭の足は、一杯のカフェラテを飲むために、八重洲通りのスターバックスへと向かいます。