前田陽一遺稿集
松竹の映画監督だった前田陽一さんが、ガンで他界したのが1998年5月でした。
享年は65歳だから、いまの寿命からいって早世。
前田監督は兵庫県龍野市の出身だった。尾道出身であり大学も違ったわくわく亭に、前田監督と多生の縁があったとするならば、「姫路文学」という同人雑誌が媒介している。
1932年生まれの監督は、25歳の1957年に「姫路文学」同人になり、生涯唯一となる小説「枇杷の木刀」を発表した。
翌58年には松竹大船撮影所助監督試験に合格入社。それっきり小説は書いていない。
(わくわく亭は1962年頃、まだ学生だったが、雑誌主催者にさそわれて「姫路文学」同人となったから、もちろん前田監督と面識はなかった)
いそがしい監督業のかたわら、前田さんは龍野高校の旧友たちと「酩酊船」という同人誌を発行して、おもにエッセイ風の文章を書いていた。生涯にわたっての文学青年、文学趣味が抜けなかったといえるだろう。
前田監督が死去したのちに、わくわく亭は「酩酊船」の同人となったのだから、ふしぎな縁というか、
多生の縁があったといえるのではあるまいか。世代の違いのため、2度の機会にニアミスしてしまったけれど。
そうした機縁もあって、写真の前田陽一遺稿集『含羞のエンドマーク』を入手することになった。
監督が「酩酊船」に寄稿した文章が主として収められており、映画雑誌などに書いた映画に関係した
文章はふくまれていない。あくまで文学青年前田陽一の遺稿集として編集されている。
それだけに、前田映画のファンにとっても、あるいは生前監督の周囲にいて親しくしていた人々にとっても、いままで目にする機会の無かった文学的な諸作ばかりのはずだ。
前田監督が逝って、すでに9年半になる。
監督としての代表作をピックアップして、あらためて映画の業績を想起しておくとしよう。
いうまでもないけれど、作品はどれも松竹伝統の喜劇映画ばかりだ。
1964 にっぽん・ぱらだいす★ (松竹)
1965 ちんころ海女っこ (松竹)
1970 喜劇。あゝ軍歌 (松竹)
1972 虹をわたって (松竹)
1977 坊っちゃん★ (松竹・文学座)
1979 神様がくれた赤ん坊★ (松竹)
1980 土佐の一本釣り★ (松竹・キティフィルム)
1980 つっぱり清水港 (松竹)
1998 新・唐獅子株式会社 (アルゴ)映画ロケ中に絶命。
★印をつけた作品は、わくわく亭が観たものです。
毎年命日の5月になると横浜で、前田監督をしのぶ映画会があって、
わくわく亭も練馬からでかけています。映画会のあと、松竹のいまの監督さん、
映画俳優、シナリオライター、前田映画の永遠のファンたちが50人もつどって
居酒屋で飲むのです。★印のついた映画のいくつかは、その映画会で観たものです。
■ ■ ■ ■ ■
『含羞のエンドマーク』は2003年2月、前田陽一遺稿集刊行委員会の手で編集され、あすなろ社から発行された。
生涯唯一の小説「枇杷の木刀」も収録されているが、他にすぐれた文章がたくさんあって、いまさらながら、前田さんは映画監督になっていなければ、作家になっていても不思議ではない、という思いを強くする。
芥川賞作家である三浦哲郎さんが、おなじ早稲田の学生のころ、「枇杷の木刀」読んで、『私はその作品の新鮮さにびっくりした……そのころの私は、いずれそのうちに前田と鎬(しのぎ)を削ることになるだろうと思っていた』と語った想い出の中で、前田監督の文才をみとめているくらいだから。
なかでも、紹介したい作品は、自分の病気をガンと知って、さいごの日々を送りつつ、氏の絶筆となった「THE LASTDAYS」である。
それは死の前の20日間ほどの記録である。
4月22日、ダメモトでもビタミンC大量療法をためしてみようと、外房線の大網駅へ夫婦で出かけ、
待ち時間ができたから、医院前の公園でクローバーに寝ころんでみる。
そこで、前田さんは、そよ風に強弱があるのを感じながら、「1/fのゆらぎ」という言葉を思い出す。
《それは、地上のあらゆる人間に心地よく感じられるもの、そよ風、小鳥のさえずり、せせらぎ、
潮騒、平安なときの人間の心拍数、モーツアルトその他の名曲に共通する、物理学上の一定の
リズムのようなものであり、(略)宇宙創生のとき「無もなき無」が、ふと、ゆらぎ、ビッグ・
バンによって膨張し続けているのがこの世界であるという、理科オンチの私ながら、とても
気に入っている理論だ。(略)芥川賞作品「ダイヤモンド・ダスト」の脚色を依頼されたとき、
私はオリジナル部分のモチーフとして、取り入れたことがある。
人間、死ねば、その世界に帰っていくと、私は信じるようになっている。
最近、河合隼雄の本で知った作者不明のアメリカの詩集『1000の風』(南風椎訳、
三五館刊)は、私の子供っぽい死生観にフィットするものがあった。
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイヤモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物の上にふりそそいでいます。
……
と続いていく。この詩には妙なリアリティがあって、アメリカでは評判になったそうである。》
遺稿集の編者は4月24日に書かれた最後の1行の日記「昨夜は早目にぐっすり眠れたので気持ちがよい」につづいて、前田さんが書いたシナリオ『ダイモンド・ダスト』のラスト・シーンを付記している。
早春の峠道を父が息子を肩車して保育園から帰ってくる場面。空の飛行機雲を見上げながら、
病院で死んだ父の知人のアメリカ人のことを語る。
《息子「死んだら天国に行くの?」
父 「そう、天国に行く」
「どこにあるの」
「宇宙にある。天の国だから。すごくきもちのいいところだと思うよ。
1/fのゆらぎで、ゆらいでいるところさ」
「なにそれ」
「気持ちのいいものには、みんなふくまれているものさ。たとえば、そよ風、小川の
せせらぎ、星のまたたき、それから、きれいな音楽や、気分のいいときの心臓の音。
(略)それを1/fのゆらぎ、というんだな」
(中略)
「150億年ほど前にこの宇宙ができた。その前というのはなんにも無いところだっ
たんだ。いや、〈なんにも無い〉も無かったんだ」
「へんなの」
「そのへんなところが、ふと、ゆらいだんだな」
そして生まれたのが宇宙。光のつぶが生まれ、光からつぎつぎ星が生まれ、
ふるくなった星は超新星というものになり爆発する。爆発したものが、
またあつまって地球になり人になった。だから……
「君も父さんも、みんな星のかけらなんだよ。そして死んだら1/fでゆらぐ
気持ちのいい天国や極楽にもどっていく。だから、死ぬことは決して哀しいことでも
怖いことでもない。地球に遊びに来たくなったら、いつでも風になったり雲になったり
花になって咲いたりして、遊びにこれるのさ。ほら、(病死した)お母さんが
小鳥になって遊びにきているかもしれないぜ」
■ ■ ■
すこし長い引用になってしまったが、わくわく亭の死生観と前田さんのそれが、とても近いものだから、紹介しました。僕らはみんな宇宙の星のかけらだったんですね。
庭にくる鳥は、木になった梨の実は、宇宙の1/fのゆらぎが生みだした、だれかなのかもね。
享年は65歳だから、いまの寿命からいって早世。
前田監督は兵庫県龍野市の出身だった。尾道出身であり大学も違ったわくわく亭に、前田監督と多生の縁があったとするならば、「姫路文学」という同人雑誌が媒介している。
1932年生まれの監督は、25歳の1957年に「姫路文学」同人になり、生涯唯一となる小説「枇杷の木刀」を発表した。
翌58年には松竹大船撮影所助監督試験に合格入社。それっきり小説は書いていない。
(わくわく亭は1962年頃、まだ学生だったが、雑誌主催者にさそわれて「姫路文学」同人となったから、もちろん前田監督と面識はなかった)
いそがしい監督業のかたわら、前田さんは龍野高校の旧友たちと「酩酊船」という同人誌を発行して、おもにエッセイ風の文章を書いていた。生涯にわたっての文学青年、文学趣味が抜けなかったといえるだろう。
前田監督が死去したのちに、わくわく亭は「酩酊船」の同人となったのだから、ふしぎな縁というか、
多生の縁があったといえるのではあるまいか。世代の違いのため、2度の機会にニアミスしてしまったけれど。
そうした機縁もあって、写真の前田陽一遺稿集『含羞のエンドマーク』を入手することになった。
監督が「酩酊船」に寄稿した文章が主として収められており、映画雑誌などに書いた映画に関係した
文章はふくまれていない。あくまで文学青年前田陽一の遺稿集として編集されている。
それだけに、前田映画のファンにとっても、あるいは生前監督の周囲にいて親しくしていた人々にとっても、いままで目にする機会の無かった文学的な諸作ばかりのはずだ。
前田監督が逝って、すでに9年半になる。
監督としての代表作をピックアップして、あらためて映画の業績を想起しておくとしよう。
いうまでもないけれど、作品はどれも松竹伝統の喜劇映画ばかりだ。
1964 にっぽん・ぱらだいす★ (松竹)
1965 ちんころ海女っこ (松竹)
1970 喜劇。あゝ軍歌 (松竹)
1972 虹をわたって (松竹)
1977 坊っちゃん★ (松竹・文学座)
1979 神様がくれた赤ん坊★ (松竹)
1980 土佐の一本釣り★ (松竹・キティフィルム)
1980 つっぱり清水港 (松竹)
1998 新・唐獅子株式会社 (アルゴ)映画ロケ中に絶命。
★印をつけた作品は、わくわく亭が観たものです。
毎年命日の5月になると横浜で、前田監督をしのぶ映画会があって、
わくわく亭も練馬からでかけています。映画会のあと、松竹のいまの監督さん、
映画俳優、シナリオライター、前田映画の永遠のファンたちが50人もつどって
居酒屋で飲むのです。★印のついた映画のいくつかは、その映画会で観たものです。
■ ■ ■ ■ ■
『含羞のエンドマーク』は2003年2月、前田陽一遺稿集刊行委員会の手で編集され、あすなろ社から発行された。
生涯唯一の小説「枇杷の木刀」も収録されているが、他にすぐれた文章がたくさんあって、いまさらながら、前田さんは映画監督になっていなければ、作家になっていても不思議ではない、という思いを強くする。
芥川賞作家である三浦哲郎さんが、おなじ早稲田の学生のころ、「枇杷の木刀」読んで、『私はその作品の新鮮さにびっくりした……そのころの私は、いずれそのうちに前田と鎬(しのぎ)を削ることになるだろうと思っていた』と語った想い出の中で、前田監督の文才をみとめているくらいだから。
なかでも、紹介したい作品は、自分の病気をガンと知って、さいごの日々を送りつつ、氏の絶筆となった「THE LASTDAYS」である。
それは死の前の20日間ほどの記録である。
4月22日、ダメモトでもビタミンC大量療法をためしてみようと、外房線の大網駅へ夫婦で出かけ、
待ち時間ができたから、医院前の公園でクローバーに寝ころんでみる。
そこで、前田さんは、そよ風に強弱があるのを感じながら、「1/fのゆらぎ」という言葉を思い出す。
《それは、地上のあらゆる人間に心地よく感じられるもの、そよ風、小鳥のさえずり、せせらぎ、
潮騒、平安なときの人間の心拍数、モーツアルトその他の名曲に共通する、物理学上の一定の
リズムのようなものであり、(略)宇宙創生のとき「無もなき無」が、ふと、ゆらぎ、ビッグ・
バンによって膨張し続けているのがこの世界であるという、理科オンチの私ながら、とても
気に入っている理論だ。(略)芥川賞作品「ダイヤモンド・ダスト」の脚色を依頼されたとき、
私はオリジナル部分のモチーフとして、取り入れたことがある。
人間、死ねば、その世界に帰っていくと、私は信じるようになっている。
最近、河合隼雄の本で知った作者不明のアメリカの詩集『1000の風』(南風椎訳、
三五館刊)は、私の子供っぽい死生観にフィットするものがあった。
私の墓石の前に立って
涙を流さないでください。
私はそこにはいません。
眠ってなんかいません。
私は1000の風になって
吹きぬけています。
私はダイヤモンドのように
雪の上で輝いています。
私は陽の光になって
熟した穀物の上にふりそそいでいます。
……
と続いていく。この詩には妙なリアリティがあって、アメリカでは評判になったそうである。》
遺稿集の編者は4月24日に書かれた最後の1行の日記「昨夜は早目にぐっすり眠れたので気持ちがよい」につづいて、前田さんが書いたシナリオ『ダイモンド・ダスト』のラスト・シーンを付記している。
早春の峠道を父が息子を肩車して保育園から帰ってくる場面。空の飛行機雲を見上げながら、
病院で死んだ父の知人のアメリカ人のことを語る。
《息子「死んだら天国に行くの?」
父 「そう、天国に行く」
「どこにあるの」
「宇宙にある。天の国だから。すごくきもちのいいところだと思うよ。
1/fのゆらぎで、ゆらいでいるところさ」
「なにそれ」
「気持ちのいいものには、みんなふくまれているものさ。たとえば、そよ風、小川の
せせらぎ、星のまたたき、それから、きれいな音楽や、気分のいいときの心臓の音。
(略)それを1/fのゆらぎ、というんだな」
(中略)
「150億年ほど前にこの宇宙ができた。その前というのはなんにも無いところだっ
たんだ。いや、〈なんにも無い〉も無かったんだ」
「へんなの」
「そのへんなところが、ふと、ゆらいだんだな」
そして生まれたのが宇宙。光のつぶが生まれ、光からつぎつぎ星が生まれ、
ふるくなった星は超新星というものになり爆発する。爆発したものが、
またあつまって地球になり人になった。だから……
「君も父さんも、みんな星のかけらなんだよ。そして死んだら1/fでゆらぐ
気持ちのいい天国や極楽にもどっていく。だから、死ぬことは決して哀しいことでも
怖いことでもない。地球に遊びに来たくなったら、いつでも風になったり雲になったり
花になって咲いたりして、遊びにこれるのさ。ほら、(病死した)お母さんが
小鳥になって遊びにきているかもしれないぜ」
■ ■ ■
すこし長い引用になってしまったが、わくわく亭の死生観と前田さんのそれが、とても近いものだから、紹介しました。僕らはみんな宇宙の星のかけらだったんですね。
庭にくる鳥は、木になった梨の実は、宇宙の1/fのゆらぎが生みだした、だれかなのかもね。